とぜんそう98年8月分

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98/08/03

先日のNHK総合テレビで「大逆転」というスポーツドキュメントを放送していた。諸般の都合で見たのは1989年の日本シリーズ、例の近鉄舌禍事件(?)だけ。3連勝で一気に近鉄が王手をかけたところ、近鉄の加藤投手が「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」と発言したと新聞に報道され、それから巨人が4連勝で逆転優勝を遂げた、という展開。加藤投手の侮辱に巨人が怒りを爆発させた、という図式のあれ。

ドキュメントでは、実は巨人は既にその加藤投手の投げた3戦目までで近鉄打線攻略法を見つけており、あとは打線がつながれば、というところまで来ていたと分析する。つまり、一種の発憤材料にはなったかも知れないが、加藤投手の発言がなくても巨人が逆転していた可能性は低くなかったらしい。

番組中一番おもしろかったのは、コメンテーターの一人が「いやああれは気分が良かったですよ。僕は巨人ファンですからね、加藤めこの若造が、って感じでしたから」とか言った直後に司会者が「実は今日はゲストで加藤投手がいらっしゃってます」と明かした瞬間(笑)。

実際のところ、ビデオなどで検証しても加藤投手は「巨人はロッテより弱い」とは言っておらず、ヒーローインタビューで「シーズン中の方が苦しかったですよ」「打たれる気がしませんでした」などとファンへのリップサービスも込めていつもロッカールームでしゃべっているまま話した内容を新聞が勝手に翻訳したというのが真相。

「だってパ・リーグですよ。インタビュー慣れもしてないしね(笑)」(本人・談)

そういえば江本孟紀の「プロ野球を10倍楽しく見る方法」にも、投手というのは毎日投げるわけでもないし、ヒーローインタビューを受ける機会が少なくてすぐうわずった甲高い声になってしまうとか書いてたっけ。いやさ、その本によれば江本自身が交替させられて帰ってきたベンチで「あほ」とか「ぼけ」とか言っていたのを「ベンチがアホやから野球ができん」と新聞に意訳されて、フロント批判をしたということで球界を去ったんだった。

そうそう、「板垣死すとも自由は死せず」は新聞社が作ったただの見出しで、岐阜で襲われたときに板垣退助本人がそんなことを言ったわけではないと中学校の先生に教えてもらったのだが、これもその類{たぐい}かしらとgooで調べてみたら、こっちのページには板垣退助本人の言と書いてあり、こっちのページには別の人の講演の演題が誤って伝わったと書いてあった。うーん、25年目の真実(は藪の中)。

余談だが、検索途中で江戸・明治の人名録に「池 大雅(いけ たいが、1723(享保 8)-1776(安永 5))」という名前を見つけ、間{かん}髪{はつ}を入れずに「白い〜マットの〜ジャングルに〜」と口ずさんでしまう自分が悲しい。

閑話休題{それはさておき}、私としてはあの日本シリーズは加藤発言のおかげで普段の数倍楽しめたと思っている。日本では大口を叩くのは反動徳的というか、目立ちたがりと見られるというか、出る杭は打たれるというか、とかくマイナスイメージがつきまとう。

だけど、言ってしまえば所詮は娯楽、あまり行きすぎるのはどうかと思うが、そこそこに調子のいいことを言うのもファンサービス。ファンの方も言質{げんち}を取ったつもりになってあとからぐだぐだ言わず、大らかに楽しめばええのではなかろうか。

98/08/07

先週、衝動的にマイクロソフトのホイールマウスを買う。インテリマウスの小型版かつPC9821対応版。

確かにこれは便利。窓の右端にあるスクロールバーまでマウスカーソルを動かさなくてもボタンの間のホイールを回すだけで画面が上下にスクロールする。ホイールをクリックするとマウスカーソルの位置に方位磁石みたいな形が現れ、マウスカーソルをその印から上下左右にずらすと画面がずらした方向にスクロールしていく。エクセルの窓でCtrlキーを押しながらホイールを回すと、表示倍率が大きくなったり小さくなったりする。等々(以上、対応しているソフトの話。MS-Excel(Office97)、IE4、NN4、エクスプローラ(Win95)、QXエディタなどで動作確認))。

なるほど、これなしでは生きていけない、と既に使っている人が言いたくなる気持ちがよくわかるし、NECがデスクトップタイプのPC98-NXにインテリマウスもどきを付けるのも宜{むべ}なるかな。もっとも、本家のホイールくるくるよりNECのスティックタイプの方が使い勝手はよさそう。

しかしPC9821対応版のホイールマウスにはさらに大きな、致命的ともいえる弱点があった。それは、マウスの球質が軽い……じゃなくて、シリアルポートでしか使えないということ。今使っているPC9821ノートにはシリアルポートが一つしかなく、ISDNとデータ通信で接続しているときにはホイールマウスが使えないのだ(よよよ、と泣く)。

仕方がないので会社にノートパソコンを持っていったときだけ使っているが、しゃれでも冗談でもなく、ホイールマウスかインテリマウスを常時使うためだけにパソコンを買い換えたい気分である。


NHK総合テレビの「ゴジラ海を渡る」を見る。ハリウッドからの「ゴジラ」映画化権の打診から日米のゴジラファンの感想までを、創作裏話みたいなものを交えながら紹介したもの。

アメリカのゴジラ・フリークもなかなかのもので、「アメリカのゴジラは頭は悪いし、走って暴れ回るだけのただの動物だ」とか「おもしろい映画だったよ。でも、あれは『ゴジラ』じゃない」などなどあまり好意的ではない(そういう意見だけ集めたのかも知れないけど)。

日本の新聞にも先日「日本のゴジラには人の心に通じるものがあり、アメリカのGODZILLAにはそれがない。ゴジラはモスラを助けてキングギドラと戦ったときから強さ・優しさ・勇気を持ったヒーローになったけど、GODZILLAは強さだけだ。話題にはなっても人気は出ない」という趣旨の投書が載っていた。

まあ日本のゴジラだってモスラを助けるまでは凶暴なばかりの悪役だったわけで、NHKの番組によればハリウッドゴジラ第2作は対戦相手が登場するということでこの先はどう転ぶかわかったもんじゃない。クリンゴンだって「スタートレック」では悪役だけど「ネクストジェネレーション」ではエンタープライズの乗組員だし、「ターミネーター」も第1作は不死身の怪物、第2作では頼りになるタフガイだし。

よしんばこのまま悪役を続けるにしてもまあそれはそれ、日本では今後絶対作らないタイプのゴジラ像だろうから存在価値はあるかも(などといいつつ、まだ見てないのであった>ハリウッドゴジラ)。

にしても、秋にはアメリカでアニメ版ゴジラが始まるそうで、これまでのアメリカ映画のアニメ版から想像するに……以下省略。

98/08/09

ここ数年のことだと思うけど、この季節になるとラジオでたまに「炎天下の」という言い回しを耳にすることがある。

由来とか出典を知らなくても字面を見れば「炎の(ような)天の下」ぐらいは容易に想像できる。辞書の類でも「炎天」の項目はあるが「炎天下」は「炎天」の用例以外ではあまり見かけない。

「炎天下」だけで「焼けるように暑い夏の太陽の下」という意味なのだから、「炎天の下の中」なんてちょっと間抜けに聞こえる表現は避けた方がいいのでは。


先日読んだ雑誌に女性の漫画家だったかが「宇宙戦艦ヤマト」について、コスモクリーナーは、あんな小さいのが一台だけで地球全体の放射能をきれいにできるのだろうか、とつっこみを入れていた。

あんたの頭には量産という言葉はないのかー。

たしかに、ラストシーンでヤマトが到着したとたんに端の方からきれいな青に変わっていく地球の様子が描かれてたけど、あれは「これで地球は救われました。めでたしめでたし」という比喩だろうに。

確かに矛盾と不条理とご都合主義の塊みたいな作品だったけど、そこまでいわれちゃかわいそう。滅亡目前の地球を救うためにマゼラン雲までの宇宙大航海、というコンセプトだけは当時のテレビアニメとしては画期的だったのだから。

98/08/13

昨夜は蝉しか鳴いていなかったはずなのに、今夜はあちこちで蟋蟀{こおろぎ}が鳴いている。昼間は湿気を含んで手でつかめそうなぐらいの暑い空気だったけど、目には清かに見えねどもってやつのお仲間でしょうか。


『ばかちらし』(わかぎえふ著、大和出版刊)を読む。なんだか中島らもと同じ事務所で、関西の小劇場で演劇なんかをやってる人らしい。自分の周囲の人たちのおまぬけな噂をいろいろ紹介してあって、とてもおもしろく読めた。

たとえば、著者の劇団に入ってきた若い女性にイタリア旅行に行く話をすると「イタリアって、フランス旅行ですよね」とくる。どうやらヨーロッパとフランスを混同しているらしい。さらにはイギリスとロンドンが別の国だと思っているようだ。で、身内が自宅に集まったときに誰かが彼女に世界地図を見せて「日本はどこ?」と聞いてみると「日本は赤く塗ってあるもんやのに……この地図は違うからわかれへん」。

それから、別の劇団の若い女の子がワープロの前でじっと座っているので何か打っているのかと尋ねたら「(使い方が)わからないからを送ってるんです」。

などなど、生きていく自信がどこからともなく湧いてくる本である(笑)。

ところで、162ページに「こうやって絶え間ぬ努力を繰り返して」とあるのだが、これは『お言葉ですが…』(高島俊男著、文藝春秋社刊)で取り上げられていた「影を慕いて」の「月にやるせぬ我が思い」とおなじく、たとえば「知らない」の文語調は「知ら」だから「絶え間ない」は「絶え間」だろうと考えたのか、それとも「たゆまぬ」と勘違いしたのか。

まあ細かいことはともかく、ひさびさに一気読みできた本。


「宇宙戦艦ヤマト」のコスモクリーナーDについて下忍さんから新説。実はコスモクリーナーDはナノマシンの集合体であり、あのサイズでも十二分に威力を発揮できたのではなかろうかというもの。

なるほど、バラノドンの群体をヒントに真田工場長が改造した可能性もおおありで、しかも自己増殖型だとすればあのラストシーンで赤い地球に広がっていったのはきれいな大気ではなくてナノマシンだったのかも知れず……。

って、体内に埋め込まれた自己増殖可能・変形自在、おまけに自らの意志も持ち合わせたナノマシンなんてものすごく都合のいい設定の漫画のおかげで、何とも安直な解釈が可能な時代になったものである。

これでいくとエイトマンの変身もナノマシン、『デビルマン』(永井豪)に登場する合体・変身可能なデーモン族も「神」が作ったナノマシン、などなどなんにでも応用が利きそうである。

なんだか、なんでもかんでも「プ○○マ」と解釈するというイメージが定着しちゃった感のある某教授みたいだなあ。


うーん、「赤福のれん」に関しては地元業界でもいろいろあったようです>朋輩

98/08/16

どうもお世話になりました。また行きましょうね>朋輩


ハリウッド版「GODZILLA」を見る。結論を先に言うと、とてもおもしろい映画だった。ただし、日本版ゴジラとは別系統の作品として。

じゃあ日本版ゴジラシリーズがおもしろいかというと、少なくとも新シリーズの「ゴジラ対キングギドラ」あたりからこっち、最終決戦が始まる頃には必ず居眠りしているのだけど、まあ評価については適当にご想像ください。

ただ、たとえばテレビ番組でいうと、日本版ゴジラが「ウルトラQ」や「ウルトラマン」とするなら、「GODZILLA」はなんというか「野生の王国」(野生動物の生態を記録したドキュメンタリー番組)のイメージに近いような。モンスターサスペンスではあっても「怪獣映画」とはちょっと違うみたいな印象というか。

確かに特撮・CGはうまくできていて、まさに現実に出現してもおかしくないような生々しい「生物」が描かれていた。反面、作り物めいた胡散臭さがやや影を潜め、それが日本版ゴジラとのイメージの乖離になっているような気がする。

ストーリー展開は「ゴジラ対デストロイア」か、それをリメイクしたと一部でいわれている「ガメラ2・レギオン襲来」に似ていて、それにアメリカ映画お得意のコンプレックスからの脱却とシンデレラストーリーを加味したような感じで、そっちのほうはまあよくできていると思う。

ということで、日本版ゴジラにこだわることさえしなければ、少なくとも近年の日本版ゴジラよりは楽しめる映画だった。こういう「ゴジラ」もあり、でいいと思う。


そっち方面の情報を少なからずお持ちの方からいささかな噂を教えていただいたので、13日分の表記の一部を変更しました。

98/08/17

某掲示板でアニメーションGIFを作るフリーソフトがあるのを知って創作意欲に駆られるも、生まれつき絵心がないため全然作れない。とりあえずプロの作ったものを見てイメージトレーニングでもするとしよう。(1時間でやっつけた習作

98/08/19

先日テレビのバラエティーショーで、ゲストの元スポーツ選手の紹介ビデオの中に「人気・実力を共に兼ね備えていた」というナレーションが入っていた。

この一例だけならその場限りの二重表現でおしまいだけど、今度は高校野球の選手について解説者に「この選手はどんな能力を兼ね備えているんでしょうか」と質問したリポーターを見かけた。

まあどんな小さなことやくだらないことであれなにかが可能なら能力のうちではあるけど、この場合は『理想の国語辞典』(国広哲弥著、大修館書店刊)にも出てきていた「プラス値派生義」を持った言葉(たとえば「あなたの実力を知りたい」と「あの人は実力者だ」の「実力」は全く同じ意味ではない)、つまり「(優れた)能力」という意味になるだろう。

で、(優れた)能力を複数持ちあわせている選手もそりゃ多いだろうけど、一つの(優れた)能力だけを買われた選手だっているはずで、いきなりどんな(優れた)能力を兼ね備えているかなんて聞き方は少しおかしい。

となると、最初の例と併せて考えれば、どうもこの人たちは「兼ね備える」を単純に「備える」の意味で使っているのではなかろうか。

そういえば「兼ね備える」や「兼用」という言葉は結構使うけど、単独での「兼ねる」の方は最近あんまり言わないし聞かないような気がする(気のせいかな)。言葉が滅びていく前兆だったりして。

98/08/25

村山実氏のご冥福をお祈りいたします。


野球といえば、先般某職業野球団の某選手の発言について球団と本人が謝罪していた。

文藝春秋刊『徹底追及「言葉狩り」と差別』によると、あの発言内の言葉は「日本では昔からある言葉だったが、それが戦後、」特定民族に対する「蔑視の表現に固定化され、今日では日本語の原義を離れて、規制の対象となってしまった」そうな。この場合の「固定化され」たとは、同書によれば本来別の言葉だったのが似たような別の言葉のイメージに固定化された、というぐらいの意味。

私自身は特に必然性がない限り積極的にこうした言葉を使う気はないが、ものによってはあまり意味のない規制だとも思っている。たとえば今回の某選手の発言の場合、特定民族への「蔑視」のためのものだったのだろうか、それとも「日本語の原義」のつもりで使ったのだろうか。

結局はこういうどっちともとれる言葉については使う側の心の持ちようの問題であって、言葉がどうこう言うよりは個人個人の気持ちの中から差別的意識や感情をなくすように努力していくことが肝要だろう。

それはそれとして、諸外国の事情はよく知らないものの何となく日本ではこうした具合の悪そうな言葉に対してやけに敏感という気がする。で、マスコミはそういった言葉を見つけては当たり障りのない言葉に置き換えていく。所謂{いわゆる}「言葉狩り」と「言い換え」。

だが、考えてみるとそうした行為はマスコミの専売特許というわけではなく、マスコミによる用語規制の始まる遙か以前から日本にはかなり類似した習慣があった。

たとえば、結婚披露宴の最後には「これでおしまいです」とは決して言わない。忌詞{いみことば}というやつで、「別れる」「切れる」「割れる」「壊れる」「終わる」など、新郎新婦の破局を思わせる言葉を使ってはいけないからだ。で、普通は「これにてお開きといたします」。

もっとも、ちょっと前のウェディングソングには「うまくいってもだめになってもそれがあなたの生きる道」などという歌も入っていたらしいから、そろそろ披露宴での忌詞も「お開き」になる運命なのかも知れない。

閑話休題{それはさておき}、お葬式では「続く」「引かれる」などは避けるし、受験生のいる家庭では「滑る」「こける」「落ちる」「失敗」などが禁句となる。「サザエさん」(長谷川町子著)では、風呂場で尻餅をついた夫が妻に向かって「石鹸を踏んづけて、足が上になって頭が下になった」と告げる話があった。いうまでもなく子供が受験生。また、飲み屋などでは「するめ」は「する」という言葉が縁起が悪いというので「あたりめ」と呼んだりする。

これはいわゆる「言霊{ことだま}信仰」によるものと考えられているようだ。日本は「言霊の幸{さきは}ふ国」と言われ、言葉の持つ霊力が口に出したことを現実にすると信じられてきた。だから、縁起の悪いことはなるべく口にしないようにする習慣が根付いている(いた)。やや方向性が違うものの、都合の悪い言葉を別の言葉に言い換える行為が簡単にマスコミに浸透したのも無理からぬことなのかも知れない。

これがアメリカあたりになると、わざわざ口に出すまでもなく悪いことが起こる可能性があるだけでそれが現実のものになってしまうというマーフィの法則に姿を変える……のかどうかはよくわからない。

ところで、『週刊少年ジャンプ』連載中の「地獄教師ぬ〜べ〜」に、主人公の教師が所用で留守のところに亡霊が現れ、報告を受けた教師が、たまたま出会ったおばあさんの唱えていた「言霊」を電話で生徒たちに伝えて難を逃れる話があった。

この「たまみがくことをおもえ」で始まる「言霊」は、魂の修練のためにこの世に生まれたことを思い出して、それを胸に成仏するようにといった意味の言葉の組み合わせが経文と同じ霊的作用を作り出すというもので、さっきの口にしたことが現実になるという言霊とはまた別のもののようだ。

もう一度読みたいと思っているのだけど、どうも単行本に収録されていないらしい(見落としているのかも)。元ネタも含めて、どなたがご存じありませんか?

(参考:『マンガ 傑作落語大全 ウソとマコトの巻』高信太郎著、講談社刊)

98/08/26

実はまだ『理想の国語辞典』(国広哲弥著、大修館書店刊)を読んでいたりする。なかなかおもしろい内容で最初のうちはけっこうな速さで読んでいたものの、やはり学術書の悲しさで山もなければ谷もない記述の連続にちょっと倦んだというか、ほかにおもしろい本を数冊先にこなしていたり(『飛鳥昭雄の超真相!?』とか『今様こくご辞書』とか)。とはいえおもしろいことは事実で、あと少しで読了の予定。

で、先日読んだ部分にこんなのがあった。

(略)むかしある薬の広告の中に「不定愁訴」に利くと書いてあった。これは正確にはどういうことであるか確かめようとして当時の『広辞苑(第二版、一九六九)を見たが採録されておらず、第三版(一九八二)から現われ、第四版(一九九一)にも引き継がれて次のように記されている。
(略。説明文の中にわからない言葉がでてきたのでそちらを引くとまたまたわからない言葉があり、さらにそれを引こうとしたが項目がなかったという顛末が書かれている)一つの辞典で分からなければ別の辞典を引けばよいので、『三省堂』(引用者注:『三省堂国語辞典第四版』のこと)を見ると次のようにあり、これならば分かり易い。

ふていしゅうそ【不定愁訴】(『三省堂』)
(医)これといった原因がないのに感じられる、からだの不調。(略)


うーん、「これといった原因がない」症状に利く薬ってあたりは気にならないのだろうか。

なあんて、下世話なことばっかり目に付くあたりが俗物の俗物たる所以{ゆえん}であろうなあ。


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庵主:matsumu@mars.dti.ne.jp
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