やまいもの雑記

スパイダーマン


スパイダーマン
池上遼一・作画(途中からストーリー・平井和正)
朝日ソノラマ・刊
全5巻
昭和45年2月号の『月刊少年マガジン』から連載されたもので、スパイダーマンの国内漫画化の第一号。国内漫画化とわざわざ断っているのは、これらが本国(アメリカ)版のキャラクターを使用しているものの、中身のストーリーがオリジナルだからである。

第一号というからには二号があるのだが、これは東映でテレビドラマ化された特撮番組のタイアップ企画で『冒険王』(秋田書店)に連載されていた。スパイダー星人という宇宙人から超能力とスパイダー液(ネットとストリング)、巨大ロボット・レオパルドを与えられた青年が悪の組織と戦うという、ほとんど東映ヒーローものになぐりこんだパーマンの世界である(別にレオパルドに鼻をくっつけても、自分そっくりに変身したりはしない)。

こういう破綻した話は置いといて、ご存じない方のために本国版の設定のあたりから始めてみる(ただし私の記憶によるので、まちがってたらご容赦)。

高校で放射能実験(!)をしていた高校生・ピーター=パーカーが、放射能を浴びたクモにかまれ、クモの超能力を手に入れる。さらに自分の化学知識を生かしてクモの糸と同じ性質の液体(スパイダー液)を発明、自分でコスチュームを作ってスパイダーマンとなる。しかし、すばらしい能力を手に入れたものの、どう使っていいかわからないピーター。

ある日、世話になっている叔父の家に悪人が押し込んで叔父を殺してしまう。自分の超能力を使っていれば叔父を助けられたのに、と悔やんだピーターは、自分の力を正義のために役立てようと決心する。スーパーヒーロー・スパイダーマンの誕生である。

これにピーターがアルバイトしている新聞社の社長・JJJがスパイダーマンを目の敵にすることなどが絡み、さらに当時ベトナム戦争で疲弊したアメリカを反映して、スパイダーマンは悩めるヒーローとして若者たちの支持を受け、パーマンならぬスーパーマンと比肩する人気を誇っている。

しかしそこはそれ、日本とアメリカのお国柄の違いで、悩みまくったスパイダーマンが訪れるのが精神分析医というあたり、いかにもアメリカである。しかもスパイダーマンの赤と青のコスチュームのまま精神分析医の長椅子に横たわって医師に悩みを打ち明ける図など、日本ではギャグにしかならない。

そこで、日本でスパイダーマンの連載を始めるに当たり、仕掛人の小野耕世はキャラクターと誕生のいきさつだけをいただき、後は部分的になぞりはするものの(主人公がおばさんのところに世話になっている、スパイダーマンを毛嫌いすることになる編集長(JJJそっくりの顔)のいる新聞社でアルバイトをする、など)、ストーリーはオリジナルとした。

エレクトロ・トカゲ男・ミステリオなど、本国版の敵役も登場するが、彼らが登場する背景や彼らから派生する物語は、すべて日本の社会背景に絡んだものに改められている。ただ悪い奴らがでてくるというだけではなく、なぜそうなったか、そうせざるを得なかったかがきっちりと描かれていくのである。

たとえば第一話に登場する電気人間エレクトロは、たった一度起こした交通事故のために人生を狂わされた哀れな青年の話。能天気に電撃を放っているだけのいかれぽんちでは決してない。しかもこの話の結末はスパイダーマンに恢復不能のトラウマを与え、その後の物語に大きな影を落とすことになる。

それでもなおスパイダーマンは世のため人のために働こうとするが、世間はそれを偽善・売名と呼んだ。自分の超能力を見せびらかし、人気を得たいだけの独善的行為だと決めつけた。

さらに自分の不注意から危険人物を逃がして人々から非難を受けたスパイダーマンは、東京が実験用バクテリアの危険にさらされるに及んで、ついに自分を攻撃した人々がバクテリアの蔓延で苦しみにのたうって死んでしまうことを望みさえするようになる(第三話「強すぎた英雄」)。

もだえ苦しむ人々を想像しながらあざ笑う正義のヒーローの姿には、実に鬼気迫る迫力がある(何とも生々しい共感を覚えるのは、私がコンプレックスの固まりだからであろうか)。自分を認めない世間を呪う正義の味方には、すでに存在意義はない。彼はスパイダーマンをやめる決意をする。

しかし、あろうことか彼が捨てたスパイダーマンのコスチュームとスパイダー液を悪用するものが現れた。にせスパイダーマンは幸せに酔う人々をいたぶるように悪事を重ねる。たまりかねた主人公は再びスパイダーマンに戻るが、もはや素直に世の中のために働く気はなかった(第四話「にせスパイダーマン」)。

そしてとうとう主人公が一度もスパイダーマンに変身しないエピソードが登場する(第五話「疑惑の中のユウ」)。しかも、冒頭からして、数人の暴漢に襲われて女性が逃げまどうシーン。本国版の原作者・スタン=リーをして「これは私たちのスパイダーマンとは違うように感じる」と言わしめたエピソードである。

第一巻と第二巻では以上のような話が若き日の池上遼一の感性と詩情豊かな絵でつづられている。主人公の高校生・小森ユウの傷つきやすい心と揺れ動く青春を、突然手に入れた驚異の超能力を通じて描く異色ヒーローストーリー(当時)。

大半の日本人が人類の永遠の繁栄を信じ、また、心のどこかでまだ正義の実在を信じていた時代の物語である。

第三巻以降では、ストーリーに「あの」平井和正を迎え、さらなるスパイダーマンいじめが続く。のっけからユウの背徳的行為、畳みかけるように東京タワーのてっぺんからのスパイダーマンの暴言。もはやアメリカン=ヒーロー=コミックに戻る道はない。どこへ行くのか、スパイダーマン。

第五巻では、アダルトウルフガイの下敷きにしたエピソードも登場する。まだ心霊現象関連に手を染める前の文学してた時代の平井和正のストーリーが池上遼一の絵で読めるのは、貴重だと思う。

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庵主:matsumu@mars.dtinet.or.jp