歴史的景観に開かれた議論を 中川理

 

 奇妙な改築計画が京都で進んでいる。第一勧業銀行の京都支店が、老朽化を理由に建て替えを計画している。1906年に完成したこの建物は、赤れんがの東京駅の設計者としても知られる明治・大正期の建築界の重鎮、辰野金吾が設計したもので、赤れんがに白い石を配した風格あるデザインは、長年京都市民に親しまれてきた。現存する日本の銀行建築の中でも、最も古いものの一つでもある。

 京都市は、同様な歴史的建造物が数多く残る三条通を「界わい景観整備地区」に指定して、歴史的景観を守ろうとしてきた。この建物は、その中でも中核となる建物であるため、銀行側と京都市による協議が重ねられた。その結果、現在の建物を撤去して、新たにそっくりな建物を新築するという奇妙な改築計画が決まったのである。もちろん、れんがでの新築は困難なので、れんが風のタイルを張った建物になるのだが。

 京都市の担当者は、そっくりの建物だから歴史的景観を守ることができるとしている。確かに、表面的には同じ「ような」景観は実現されるだろうし、れんが風のタイルは歴史を刻んだ本物のれんがよりも新しい分だけきれいに映るだろう。

 しかし、一方でこんな例もある。北九州市の門司港は、周辺に残された洋風建築を使って官民一体となった「門司港レトロ事業」を進めている。その中で、第一勧銀京都支店と同様に赤れんがの歴史的建造物である旧門司税関の建物(1912年完成)を近年、復元・補強し、ギャラリー・休憩所として再生した。

 ここで特徴的なのは、補強したり加えたりした部分をあえて隠そうとはしていないことである。れんがの壁には、補強や継ぎ足しの部分が露出する。内部には、現代的なデザインの部分も追加された。見方によっては、継ぎはぎだらけにも見える。しかし、この特徴は、第一勧銀京都支店の改築計画とは、全く対照的な理念に基づくものであることがわかる。見た目の形態をできるだけ元の形に近づけることよりも、むしろ改修したことを建物に記憶させることを大切にしているのだ。

 進歩を実感できない、「歴史の終わり」とされる現代において、あらゆる場面で過去の歴史が持つ力が改めて認識されるようになってきた。都市景観についても、街の「記憶」として歴史的価値の重要性が主張されるようになった。今回の第一勧銀京都支店の改築では、日本建築学会や市民グループなどによる保存要望書が相次いで提出されている。しかし、我々が景観に求める歴史的価値とは、いったいどのようにして測れるものなのだろうか。

 風景論で知られる哲学者、オギュスタン・ベルクは、現代の都市空間の病理として、表象とその指示対象であるべき実態がつながらなくなってしまった状況を指摘している。つまり、都市景観を構成するものの多くは、それが持ちえる実態的な意味をほとんど失ってしまっていると言うのだ。例えば、観光地などで見かける特産品や地域の文化財などをカラフルにかたどった看板や建物は、地域のイメージを記号化しただけであって、実態としての地域文化とはむしろ乖離している。

 都市景観における歴史的価値とは、建築や空間の形態そのものにあるのではなく、形態がわれわれにどれだけのことを語りかけることができるのか、その潜在的な力の強さにこそあるべきなのだ。そう考えると、そっくりな建物の新築と、継ぎはぎの改修と、どちらが価値のある方法かはおのずから明らかであろう。いかに丁寧に作ろうとも、本物に似せただけの建物では、観光地の張りぼてと同様に架空な意味しか持ち得ない「見せ物」にしかならない。一方、継ぎはぎの改修は、その姿に、建物や地域の歴史をリアルに伝える力がある。

 もちろん、こうした景観の価値は、それを体験する人々が作り出すものだ。そこでは、都市空間を公共のものとして共有しようとする人々の意識の存在が不可欠となる。だからこそ、開かれた議論が必要となる。都市空間に求められる歴史の力とは何か。その議論はそのまま、我々の社会のこれからの枠組みを考えることにもつながるはずである。

 (なかがわ・おさむ 京都工芸繊維大学助教授・近代建築史)

 

(新聞掲載の文章を少し改変してあります)