新世紀エヴァンゲリオン劇場版シト新生

−−あるいは思春期について
 このアニメの特徴は、顔のないアップと漢字の割り込みである。
 映画はまずセックス後の男女の会話で始まる。そのときの映像は組み合わされた手のアップである。手の形、爪の形、指の形が、それを男女のものだと暗示する。会話がセックスの後だと暗示する。しかし、確かなものは何もない。会話の主体が映画の主人公であるという保証もなにもない。
 好意的に考えれば、アニメを見に来る児童・生徒にセックス描写を見せたくないための配慮とも受け取れるが、私は、そんなふうには考えない。
 この映画の作者は、全体というものを考える習慣がない。全体を見つめることで、細部の矛盾をのみこみ、新しい視点を見つけ出すという思考をしようとしない。つまり、哲学というものが決定的に欠けているのだ。全体はどこかにあると信じ、それに頼っている。その全体を疑うということを絶対にしない。
 たとえば、記憶として挿入される「弦楽四重奏」の練習シーン。顔のない四人の生徒。時間のズレを通してあらわれるあらわれ方。そこに作者は「個性」というものを暗示したかったのかもしれないが、それはバッハによってあらかじめ完成された全体のなかの個性にすぎず、登場人物そのものの個性ではない。登場人物の個性ではないからこそ、そこには顔が欠けている。作者は、本当は、登場人物の個性を知らない。ただ、ある全体のなかでは、あるとき誰かが「個性」を演じるということだけしか知らない。その個性がどんな意味を持つか知らない。全体はすでにあるのだから、それに付随していればいいと考えているのだと思う。
 これは、個性(細部)も全体も考えない視点だ。
 細部には全体が宿る、細部には宇宙が宿る−−という考え方があるが、それは、その細部をしっかり見つめ、全体を意識する精神があってのことの話だ。ひたすら細部のアップに頼るのは、この作者が、全体というものを全く知らないからである。そして、それは本当は細部を知らないことでもある。細部さえもきちんと見つめないということでもある。
 そのことが端的にあらわれたのが、漢字の挿入である。映像への漢字の乱暴な割り込みである。「エヴァンゲリオン」というのだろうか、主人公の少女や少年が中に入り、動かすロボットのようなものが闘うシーンに、乱暴な漢字の割り込みがある。
 「殲滅」「破壊」「爆撃」「流血」「寄生」。
 映像で表現されるべき部分が「漢字」によって表現されている。「殲滅」とは、全体がどのように壊され、どのような細部に分解し、機能しなくなってしまうのか、は映像では表現されない。「破壊」も「流血」も「寄生」も同じである。それはどんなふうに見えるのか。それが一切表現されない。どんな苦しみがあり、どんな悲しみがあり、どんな怒りがあり、どんな興奮があるのかが一切表現されていない。
 この映画の作者は、全体を想像する力もなければ、細部を想像する力もないのである。
 『ツイスター』や『ダンテズ・ピーク』が、自然の脅威をリアルに映像にして見せるのと比べると、これは何ともお粗末なことである。
 この映画の作者が提供するのは、実は「映像」ではなく、単なる「概念」なのである。「概念」しか提供できないのである。(「概念」というのは、そして、「哲学」からもっとも遠いものであるが、話が面倒くさくなるので、ここでは省略する。)

 この作者は、そして「概念」さえもアップでとらえようとしている。アップにすることで、全体を暗示し、実のところ、全体から逃げている。哲学を装いながら、哲学から非常に遠い所にいる。
 「漢字」もそうだが、黒い板のような「サウンド・オンリー」の会話もその具体的な例である。『2001年宇宙の旅』に出てくる黒い板を思わせる「概念」の象徴、思考の象徴の会話。そこにも顔がない。某かの政治的決定が下されるのだが、そうした具体的な人物が見えない。ただ、どこか、主人公の少女や少年の知らない世界で決定される何どこかによって、彼らの運命も影響を受けるということが暗示されるだけである。ここでは「政治」というものの「概念」がアップでとらえられているだけである。
 アップという手法が持つ危険性は、視界を覆ってしまう、その細部によって、細部を全体と勘違いしてしまうことだが、この映画の作者(あるいは、このアニメの原作者は、といっていいのかもしれない)は、自らの手法のなかで、完全に全体を見るという視点を失ってしまったのだと思う。

 この映画は、映画として非常につまらない。つまらない映画など、無視すればいいのかもしれないが、この映画がヒットしているということが、私には、どうも危険なことのように思えてしようがない。
 たぶん、この映画の作者は好意的に見れば「思春期」の精神の不安定さというものを描きたかったのだと思う。思春期というのは、自分の体のなかからもう一人の自分が、突然顔を出す時期のことである。
 映画のなかの主人公の一人(誰だったか名前は忘れた)が、「***です、よろしくねっ」と転校の挨拶(?)をする。するともう一人が「ダサい」と批判し、その間隙をぬってもう一人が「チャンス」とばかりに別の顔を出す。「私」は一人であるはずなのに、一人ではない。それぞれの「私」がそれぞれの「世界」と結びつきたがっている。自分のことだけを見守り大切にしてくれる家族の愛の世界から放り出され、世界の亀裂のなかで自分も様々に砕けていく。
 この分裂の危機、自分が自分でなくなってしまう危機、サナギが蝶にかわるような大変身の危機。この時期、人間は何でもする。先生も殴れば、万引きもする。高級な車にクギで傷をつけたり、飲んではいけない酒を飲んだり、シンナーをすったり……。自慰にふけったり、下着を盗んだりもする。それはどうしようもないことなのだ。何かがかわっていくときには、どうしたって自分を傷つけてしまう。他人を傷つけてしまう。その傷の中から新しい世界の入り口が少しずつ見えてくる。そんな時期なのだ。
 この時期は、そして、もっとも「概念」から遠い時期である。「概念」で制御できないものが暴れ狂う時期である。
 この時期を、ある種の人間は「概念」そのもので生きている。自己の身体を苦しめる苦悩、苦悩の喜び(矛盾でしか言い表すことのできないもの)、暴力への衝動、その甘い誘惑と痛みを、「殲滅」だの「破壊」だの「流血」だの「寄生」だのという「漢字」でとらえてしまう。決して「漢字」などではとらえできないものが思春期の実体なのに、その全体を細切れにし、「漢字」のアップの世界にとじこめて処理してしまう。−−そうした人間がいるのだ、そうした人間が、このアニメを支えているのだと思うと、何だかぞっとしてしまうのである。
 薬におぼれて破滅していく人間の方が、そうした人間に比べ、はるかに温かく、また生きている感じがする。安全な感じがする。薬に溺れるなどということは、本当はしてはいけないことだろう。してはいけないことだが、そこには何か、せざるを得ない不思議な力の苦しみがある。ところが、この映画のような「概念」の世界は、その苦しみを欠いているために、非常に寒々しい。突然、『トレイン・スポッティング』は非常にいい映画だった、と思い出した。『トレイン・スポッティング』がはやる国の方が、『エヴァンゲリオン』のはやる国よりもはるかに健康だろう、と思ってしまった。


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