太陽の帝国

 スピルバーグの『太陽の帝国』には、うならずにはいられない美しいシーンがあった。カミカゼとして出撃していく日本兵を捕虜となった少年が見送るシーンだ。少年は賛美歌を歌う。その歌声は有刺鉄線の塀を越える。兵士の鼓膜をつきぬける。地平線のかなたへ広がっていく。捕虜となっている大人たちの耳にもとどく。彼らのこころの底へもしみこんでゆく。スクリーンを見ていることを忘れてしまう。
 この美しさは何によるのものなのか。
 少年が戦争というものの実体を知らないことによる。少年は戦争をサッカーかラグビーのゲームのように考えている。だから少年は華々しい活躍をする日本兵が好きだ。ゼロ戦が好きだ。カミカゼが好きだ。彼には日本兵は敵ではなくライバルなのだ。だから日本の少年兵とのあいだに友情だって成り立つ。彼のためなら祈りの歌もささげる。戦争はゲームである。相手チームが弱ければゲームはつまらない。それぞれが力のすべてをだしあって戦うからこそゲームはエキサイティングである。
 戦争がゲームであるかぎりは捕虜生活も苦しくない。捕虜という役割を全力でプレーするだけである。虫を食うことも平気だ。
 少年とこころを通い合わせることになる日本の幼い兵士も同様だ。彼も戦争をゲームとしてしか理解していない。互いを所属するチームが違うライバルとしてしか理解していない。
 しかし彼らは戦争がゲームでないことを突然知らされる。カミカゼになりそこねた日本兵が少年と楽しい一瞬をすごしているとき、日本兵は捕虜のリーダーに殺される。日本兵であるという理由だけのために。
 少年はこのときはじめて戦争に直面する。戦争はただ単に頃試合をするだけのことだと知る。敵を殺し生きのびるため何でもすることが戦争だと知る。有刺鉄線の向こうまで行って帰ってきたら靴をやる−−そんなことばで少年をあやつり地雷があるかないかを確かめることだってする。味方、少年を守ってくれるはずの大人がそうした罠を仕掛けてくる。そうした残酷な生き方の構図こそが戦争なのだと知る。知らされる。
 そうして少年は、戦争の本質を知ることで生きる喜びを失ってしまう。虚無と向き合ってしまう。生きのび、両親に再会しても彼に感動はやってこない。
 ラストの何も見つめない少年の目は残酷に美しい。カミカゼに賛美歌を捧げるシーンと同様、しかし、まったく逆向きの力でスクリーンを越えて胸に迫る。絶望の絶対量がひしひしと迫ってくる。
 スピルバーグがこんなにも激しい虚無、絶望を映像化するとは思ってもみなかった。打ちのめされてしまった。もっと何かこころあたたまる映像、感動の涙でにじんでいく映像を予想していただけに、本当にびっくりしてしまった。
 『太陽の帝国』は戦争をたくましく生き抜く少年の物語ではない。少年の目を通して戦争を描いた映画でもない。少年という限定を越えて、戦争の本質、戦争と人間の関係を、戦争が人間におよぼす影響の残酷さを告発する映画である。


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