バベットの晩餐会

 とても奇妙な映画だった。最初は何をやっているかわからなかった。
 デンマークの小さな村。牧師に娘が二人いる。美人だ。たまたま村へやって来た士官が一人に恋をする。しかし生きるよろこびを拒んだような、静かな生活になじめず去っていく。まず、このときの士官の表情の変化が強く印象に残る。
 次にオペラ歌手がやってくる。彼はもう一人に恋をする。二人でデュエットするときの歌手のよろこびにあふれた顔。娘のうれしいような困ったような顔。別の部屋で二人の歌を聞いている父ともう一人の娘。その、とてもかなしそうな顔。つらそうな顔。
 オペラ歌手の恋も実らない。再び、静かなだけの生活がはじまる。
 映画の主役、バベットが登場してからも同じだ。何も起きない。質素に、何の変化もない生活が延々と続く。まるで眠ってください、というような映画だ。かろうじて眠らなかったのは、画面の一つ一つがきっちりしていたからだろう。
 ところが、この映画、バベットが牧師の生誕百年の晩餐会の料理をつくりはじめるころから、突然輝き出すのだ。
 今までにたべたことのないようなものを食べさせられると知った二人は不安になって村人を招待する。「何が出てきても料理のことはいっさい話さない。そして料理を食べた結果、死んだとしても、それが神の意志だ。」などと話しあってテーブルに着く。
 (何が起きても何も起きなかったことにする−−というのが、この村の牧師と娘を中心とした生活訓であることが、ここへきてわかる。)
 かつて娘に恋した士官も同席する。
 晩餐がはじまる。食べはじめた村人の顔がかわりはじめる。おいしいのだ。士官がそのおいしさを楽しく説明する。うーん、困った。村人は、心底困ってしまう。「料理については話さない。」と約束してしまったからだ。しかしおいしい。悪魔の料理かもしれないという恐怖は忘れてしまう。質素に、静謐にと、こころがけてきた村人。そのこころの底からよろこびがにじみでてしまう。そのよろこびが、こころをしばっていた何かをときほぐす。
 質実に生きる陰で、不倫したりだましあったり、そうしたどこにでもある生活をしてきたことを相手に打ち明けたりする。お互いさまだったね、と納得したりする。自分たちの生きてきた世界が思いのほか広かったことに気づく。
 新しいものはいつも外からやってくる。それを拒むのではなく受け入れること。受け入れながら新しい世界へ入っていくこと。たとえば恋とはそうしたことを意味する。(前半の実らなかった恋が急に思い出される。)それが生きるよろこびというものだ。そうした変化を拒んでいては何にもならない。−−などと、突然感じはじめる。
 外部と内部、精神と肉体、芸術と生活−−様々なことが一気に理解できる。しかしこれは一々説明したくない。生きることが非常に楽しいことだと納得させられる。その納得だけで十分だ。ややこしいことは納得できなかったことを納得するための、自分自身に対するいいわけのようなものだ。うまい料理はただうまいのだ。舌ざわりだのコクだの言いはじめたらまずくなるのに似ている。
 晩餐の後、満天の星の下で幼い子供のように手をつないで踊り、「ハレルヤ」と老人が神に感謝するとき、一緒に感謝したくなる映画だった。


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