スリーパーズ

 殴られ傷だらけになった少年が独房に閉じ込められる。昼も夜もわからなくなったある日、突然、天窓(だと思う)から、日の光が降ってくる。少年は掌で、その光を受け止める。すると、その光のなかに、あるいは掌のなかに、懐かしい日々が浮かび上がってくる。
 この映像が非常に美しい。
 夏の盛り、消防栓が壊れ、水が激しく噴き出している。その水を浴びながら、はしゃぎまわる四人の少年。しなやかでつややかな肉体。傷などどこにもなく、命のままに輝く肉体。肉体であることを意識などしない、純粋な命の輝き。強い日差しに輝く水よりも、もっともっと輝く少年の、喜び。はじける感情。ほとばしる純粋さ……。
 まるで、光が降ってきて掌を照らし出したというより、掌を見つめたとき浮かんだ回想の日々の輝きが、そのまま光となって、屋根を突き破って、天へ届いたという感じすらする。
 とても輝かしい。

 この映画は、ふとした過ちから人を死に追いやってしまった四人の少年が、少年院で看守から性的暴行を受け、少年院を出たあと、看守に復讐する物語である。しかも違法行為をして復讐する話である。いわば暗い話である。暗い話なのに、見ている瞬間、その暗さを忘れる。彼らの復讐が違法であることを忘れる。
 それはたぶん、少年たちが看守に奪われたものが、「個人の尊厳」といった「概念」でくくれるものを超えて表現されているからだと思う。
 少年たちは単に性的暴行を受けたのではない。性的恥辱を受けたのではない。生きる喜び、自分の肉体を自分の意思のままに動かし、水や太陽や空気と一体になる、世界と一体になり、世界そのものを輝かせるという命の不思議さを傷つけられたのだ。
 そうしたことを、独房のシーン、降ってくる光を掌で受け、その光の中で、少年院に入る前の日々を回想するシーンは語っている。

 少年たちが奪われたのは、また、そうした純粋な命の輝きだけではない。
 屈辱を受け、その屈辱を悔しいと思う気持ちそのものをも奪われようとした。(この映画では描かれていないが、多くの少年たちは、その悔しいと思う気持ちを奪われ、人間として再起できなかったに違いない。)だが、少年たちは、その悔しさを奪われなかった。悔しさを持ちつづけた。それが復讐の原動力である。
 (最初に書いた独房のシーンと関連して、悔しさの大切さ、悔しさが人間の感情であることがアメリカンフットボールのエピソードで描かれている。そして、その感情が真実であるからこそ、悲劇を生む、とういこともきちんと描かれている。−−四人の少年は、殴られ、傷ついただけだが、彼らと一緒に行動した一人の少年は看守たちに殺されてしまう。)
 少年たちは、その悔しい気持ちを晴らすために復讐する。それは悔しい日々を思い出すということでもある。絶対に思い出すまい、絶対に語るまいと思っていたことを、思い出し、聞かれたくない感情を振り払って他人にも語る−−そうした、矛盾した気持ちと戦いながらの復讐である。
 独房での日の光のなかの回想がまばゆく輝く命とするなら、こうした矛盾した感情の持続は暗い命の輝きでもある。そして、その暗い命もまた人間の重要な命の一つである。命は単純に一つの立場でとらえることのできない、ねじれ、組み合わさった不思議なものなのである。
 ブラッド・ピットが演じる検事は、そうした矛盾の具体的な存在だといえるだろう。
 復讐の発端となったかつての仲間が引き起こした殺人事件。二人を断罪するという立場に身を置きながら、逆にかつての看守を断罪する。二人の無罪を演出していく。
 苦悩、苛立ち、屈辱、悲しみ、冷静さを維持しようとするあせり−−何重にも乱れるこころを、じっと押さえつけた演技だった。
 違法な復讐劇であるにもかかわらず、後味が悪くないのは、少年たちの感情、命の輝きが映像として美しく表現されており、また、苦悩が苦悩として、深く表現されているためだろう。ブラッド・ピットの複雑な人間形成の表現力、ジェイソン・パトリックの控えめの人間描写も、人間の複雑さと、命の強さを感じさせ、それが自然に伝わってくるからだと思う。


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