『紅いコーリャン』と『黒い雨』

 『紅いコーリャン』を見た。「紅」と「コーリャン」を見たと言った方がいいかもしれない。そして図太くたくましい音楽を聞いた。その三つがとけあったものが『紅いコーリャン』だった。
 コーリャンはざわざわと揺れている。草というより樹齢何百年のたくましい木のように見える。厚い葉とふとい茎だ。その生命力がスクリーンからはみだしてくる。通路や空いた椅子を浸食し、一斉に成長し、ざわざわ揺れる。スクリーンを隠してしまいそうな勢いである。すこし怖い。しかし本当は怖くない。深い緑の中のざわざわが、私の中の何かを励ましている。
 「紅」は最初、さびしい色をしている。嫁にいきたくないところへ嫁にやられる女−−その女の顔の上にひろがる紅、女をのせたカゴの紅の布越しの光の色。泣きはらした目の色か。運命を悲しむ血の色か。血を水にうすめたような不思議な色だ。
 紅の色はストーリーとともに鮮やかになってくる。野放図に生い茂ったコーリャンの命のようにたくましくなってくる。「自分の生きたいように生きる」という女の決意の強さをあらわしているようだ。うすめられた血の色ではなく、情熱を燃やすエネルギーそのものの色だ。(不思議に図太い音楽は女の血が紅の色を強くするごとに鳴り響く。あるいは女の鼓動を励ますように鳴り響く。)
 その決意の強さに引っ張られるようにしてスクリーンから目が離せなくなる。そして赤い血は、最後に女の体から噴き出す。日本軍の銃撃に倒れて、激しく噴き出す。夫を染め、子供を染め、コーリャンを染め、映画を見ている私たちを染める。生きる喜びを奪われた怒りの血の色である。
 この激しい色の前に、うっとりとはとれるしかない美しい顔を見た。主人公の女は、乱食い歯に平べったい顔をしているが、一瞬すばらしい表情を見せる。
 同胞を日本軍に殺された後、男たちに「あなたたちはおとこだから復讐しなければならない。」と言う。男たちは復讐の準備をする。しかしなかなか日本軍はやってこない。子供が「父ちゃんが弁当持ってきてくれ、と言ってるよ。」とやってくる。弁当を持っていそいそとコーリャン畑へ行く。そのときの楽しそうな顔。好きな男と一緒に生きているという喜びの顔。こうやって復讐の手伝いをし、一緒に生きているのだという晴々とした顔。
 それが日本軍の銃によって奪われる。女はどんな怒りも語れずに死ぬ。その死がかわりに怒りを語る。噴き出した血の激しさで。その紅の鮮烈さが私たちを染める。
 私は何を見たか。怒りという抽象的概念ではなく、血の紅そのものを見た。また、その血に濡れながら、その血の情念を吸い込んで紅の色の強さを増していく男と子供の体の中を流れる血を見た。そして、その背後で平然と揺れるコーリャンのたくましさ。銃などでは奪うことのできない力を見た。

 『黒い雨』では私は何も見なかった。何も見えなかった。原爆投下後の広島を歩く主人公たち、彼らが見る風景が非常に遠い。スクリーンのはるか向こうへと遠ざかって行く。
 黒こげになった赤ん坊を抱く母親とかただれた皮膚とか川を流れてくる死体の山とか−−そうした本来ならショッキングなものがスクリーンから飛び出してくるのではなく、逆にどんどん遠ざかる。そうした映像を見ながら、被爆者たちが見たのは映画のフレームと遠近法ですんなりとらえられるような風景ではなかったのではないかという思いだけが強まった。被爆者には、それがもっと違ったものに見えたはずだと思う。何かわからないものとして、目の前に突然あらわれてきたにちがいないと思う。そうした、突然という印象、あ、こんなふうに見えたのかという驚きがない。
 こうした映画を思想がない映画というのである。あるいは映像が思想化されていないという。
 『紅いコーリャン』ではコーリャンさえ思想化されていた。アンドレ・タルコフスキーなら日陰の温室の植物のように繊細に表現するかもしれない。デビッド・リーンなら光にきらきら輝く華麗な映像にするかもしれない。しかし張芸謀はそれを図太いざわざわ、図太い命のざわめきとして映し出す。そんなふうに見える。そんなふうにとらえる視線があるのかと、頭を殴られる思いがする。実際、私は頭を殴られたのである。頭を殴ってくるものは、ことばであれ、肉体であれ、棒であれ、それは思想というものだ。
 『黒い雨』には頭を殴る映像が一つもない。映画は何よりも映像である。映像そのものが語らなければ意味がない。私たちの想像をたたきこわして、見えなかったものを見えるようにしなければならない。思い出したように「正義の戦争より、不正義の平和がいい。」などというせりふをしゃべらせればそれが思想になるというものではない。
 (それは中国侵略に対して発せられたことばではないが、私は、中国人がそのせりふを聞いたらどう思うだろうかと不安になった。まるで中国侵略が、あるいは他のアジアの国への侵略が「正義の戦争」だったと言っているように受け取られはしないだろうか。−−こんな余分なことを考えてしまうのも、映像が何一つ語らないからだ。)

 『明日』を見た。『黒い雨』と違って悲惨なシーンはないのに切々と胸を打つ。おだやかな映像の積み重ね、たとえばお手玉をほぐしてあんこをつくる知恵とそれを喜ぶ顔の美しさ、輝きが、映画を見ているという意識を消す。じかにその人の輝きにふれた気持ちになる。そして思わずすすり泣いてしまう。『黒い雨』のときは聞かれなかったすすり泣きが、映画館のあちこちから聞こえはじめる。
 映画がなぜ好きか−−それは見たこともない映像に触れることができると同時に、たぶんそうした瞬間が存在するからだ。ざわめきが消え、スクリーンからあふれでる映像に飲み込まれ、その飲み込まれていく感覚を見知らぬ人と味わうことができるからだ。


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