ロミオとジュリエット

 映画は映像と音でできている。これは当たり前のことだけれど、改めてそのことをはっきり意識した。意識させられた。
 そして、それを意識せずにはいられなかったという点で、この映画は完全な駄作であると思う。

 映画の登場人物はシェークスピアの書いた「ロミオとジュリエット」のセリフをしゃべる。それがとてもつまらない。シェークスピアのセリフそのものがつまらないわけではない。きざな言い回しが嫌いなわけでもない。まあ、しゃれたことを言うのもだ、とシェークスピアに感心したりもする。ロマンチックな心、恋に恋する思春期の心など、昔も今も変わらないだろうから、シェークスピアのことばが現代の恋に似合わない、というわけでもない。
 しかし、つまらない。
 なぜか。それは、シェークスピアが映画というものを知らず、シェークスピアは芝居のことしか知らずに「ロミオとジュリエット」を書いたのに、そうした事実を無視して、バズ・ラーマン監督が、シェークスピアのことばをそのまま、映画に持ち込んだからだ。シェークスピアは舞台の文法で、舞台のセリフを書いた。舞台の上ではどんなに精巧につくっても背景はにせものにすぎず、そこでの行動はあくまで生身の人間(役者)が動ける範囲に限定されている。フラッシュバックはつかえない。場面の転換にもかぎりがある。多くのことはことばで説明するしかないのだ。それが芝居というものなのだ。舞台でしゃべるセリフは、それがあくまでも舞台の上だからしゃべるのであり、現実にはそんなせりふは、次から次へとしゃべらないということが、見る人にも演じる人にも「常識」として共有されている。だから、どんな長いセリフであろうと、舞台の上でなら、それは許される。これは、セリフが舞台を作っている、という意味でもある。セリフがなければ、舞台はないのである。(パントマイムというものがあるが、それは特別な存在である。)
 ところが映画では違う。ことばですべてを表現する必要がない。映像そのものが語ることができる。舞台では見えない役者の目、そのアップがどんなセリフより多くのことを語ることがある。視線のかすかなためらいや、輝きの変化がどんなことばより雄弁にこころを伝えることがある。
 そして、その映像が伝えることばの特徴は、ことばのスピードを無視できることである。舞台のセリフはどんなに早くしゃべっても、それをしゃべるだけの時間を必要とする。舞台はセリフをしゃべる時間によって、時間全体が支配されてしまっている。ところが映画では、その映像が伝える時間は自在に変化するのである。あるときはほんの一瞬の映像が何千何百というセリフ(こころのなかに浮かんだことば)を伝える。その映像は、細切れになったり、早まわしになったり、スローになったりする。そして、そのスピードの変化そのものが、こころの変化そのものなのである。
 バズ・ラーマン監督は、このことをすっかり忘れてしまっている。平気でシェークスピアのセリフを役者にしゃべらせている。そのために、役者がしゃべっている時間が映画のリズムを完全に壊してしまっていることに気づいていない。
 不良たち、やくざたちの、ダンスのような振る舞い。きざな衣装やふるまい。常識を破ることでしか自分を表現できない若者のエネルギー。その荒々しさと繊細さを、せっかく映像にしながら、その映像のリズムを、役者にシェークスピアをしゃべらせることによって、完全に壊してしまっている。シェークスピアのことばは、バズ・ラーマンが映像化したもののリズムとは全く違った生き物なのである。そのために、映像とことばがとけあわない。
 バズ・ラーマン監督は、好意的に解釈すれば、異質なものの出会いによる新鮮さを描きたかったのかもしれない。しかし、私には、その映像とことばの出会いは、新鮮というより、ただ陳腐にしかみえなかった。シェークスピアが映画を知っており、現代に生きていたならけっしてこんなセリフは書かないだろう、という思いだけがつのった。

 レオナルド・ディカプリオが、透明感のある、あるいは肉体の匂いのしない不思議な演技をしていただけに、なんだか残念である。


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