『利休』と『キッチン』

 『利休』の映像は豪華である。まず「朝顔」に驚かされる。「朝顔」が宇宙に開いた花のように見える。止まっているのに動きがある。堅牢でダイナミックな美の運動に目がはなせなくなる。
 秀吉が見たのは単なる「朝顔」ではなく宇宙の広さであると納得させられる。 この最初の茶室の出会いでは、利休と秀吉は対等の関係にある。利休の秀吉を感動させる力と、秀吉の感動する力がぶつかりあい、火花を散らし、激しく拮抗し、その拮抗が美しい調和を生む。「朝顔」は秀吉が眺めることで「美」を完成する。
 利休と秀吉の関係はそうした幸福な状態ではじまる。しかし、調和が秀吉のなかでしだいに崩れてくる。利休を利用しているうちに、利休がしだいに秀吉のなかに住み着いてくる。利休の存在が秀吉を圧倒しはじめる。そして、秀吉は自分が何者かわからなくなる。
 「梅」のシーンにそれが鮮やかに表現されている。利休がつくりだす一本の梅をこえて広がる自然の深さ──それにおののく秀吉。しかし、このとき秀吉は感動する力で利休に向き合っているのではなかった。「朝顔」のときのように感動で利休にこたえてはいない。対等な力関係が崩れてしまったのだ。それが利休が秀吉に住み着くということだ。
 利休に秀吉が切腹を命じる──それは利休への怒りからではない、とこの映画は告げている。「梅」の美のすごさと、それを見た秀吉の恐怖が、そう告げている。利休の意見が気にくわないなら、ただ利休を遠ざければいい。殺さなければならなくなったのは、利休に住み着かれどうしていいかわからなくなったからだ。
 利休のつくりだす世界に感動しているうちに、その世界が利休によって存在させられているのではなく、その存在をたまたま利休が手助けしただけなのだと気づきはじめる。利休がいなくても、もしかすると秀吉の手をとおしても、その美の世界はあらわれてくるかもしれない。そしてそれは人の力ではおよばない世界である。人の力ではかえることのできない世界である。そう気づいた瞬間から秀吉は狂ってしまった。何をしていいかわからなくなってしまった。
 利休に切腹を命じたあと、大きな椿を無造作に切って苦闘するシーンが、雄弁にそれを語っていた。秀吉の背中が激しい恐怖を語っていた。
 バッサバッサと切られ、椿が無残な形になるにもかかわらず、その無残さの向こうに、完全な美が見えてくる。無残を感じさせることで、無残ではない形があることを見ているものに感じさせる。スクリーンの向こう側をのぞかせるすごいシーンである。
 秀吉は利休に出会うまで自分の力でできないことがあるなどとは信じられなかった。何でも自分の力で手に入れてきた。しかし、人間の力がおよばない世界もあるのだ。そしてそれは人が力を貸してくれるのを待って、人の手をとおしてあらわれてくるだけなのだ。──これは秀吉にとって恐怖だった。秀吉はいわば美の世界におののいて、どうしていいかわからず利休を殺してしまった。利休を滅ぼすことで美の世界を遠ざけられると勘違いしたのだ。
 一方、利休は自分が死ぬことで美の世界が死ぬわけではないと知っていたから死を受け入れることがてきだ。死ぬことによって美がさらに強く生きることを知っていた。秀吉の意識のなかにさらに強く生きのこることを知っていた。また、他の人人の意識のなかにも残ることを知っていた。
 利休は超然と美と向き合うことができたのである。

 『利休』は、「美」の絶対的優位を明確に映像化して、利休切腹のナゾにまで迫った。「朝顔」「梅」「椿」それにラストの「竹」の壮絶な美しさのまえでは「死」さえも絶対的な基準にはなりえないことを納得させられた。これに対して『千利休』は「死」を前面に押し出しながら「死」を映像化しておらず、映画と呼べるしろものではなかった。ことばを聞きに私たちは映画館まで行くのではない。

 『キッチン』はほとんど恐怖映画であった。『利休』ではその美の絶対的存在感に体が震えたが、『キッチン』では人間の感情の希薄さにゾッとした。生きることへの意欲がまったく伝わってこないのである。快適さをこころがけているのはわかるが、いったい何になりたいのかさっぱりわからない。
 主人公は男も女も孤児である。(男には父親がいるがオカマである。)これはある意味では少女の憧れ的状況なのかもしれない。両親がいないということは反抗期のめんどうくさいできごとを体験しなくてすむからだ。彼らはなまぐさいいざこざを遠ざけて生きている。なまぐさいものから遠くはなれて生きることだけをこころがけているようにみえる。そして恐ろしいことに欲望のすべてが物に置き換えられている。美しいキッチンと調度品をとおして欲望を処理する。つまり、物が欲望を変えさえする。
 食べることをテーマにした映画に『たんぽぽ』があったが、伊丹十三の場合、食欲や味が大切だったのに『キッチン』ではまず器なのである。お茶を飲もうとして、ガラスの急須をみつけ「これ、いいね」「それじゃあ、冷たいのにしよう」とは何事だ。彼らは冷たいお茶が飲みたいから飲むのではないのだ。欲望に支配されて行動するなどということはけっしてないのだ。
 恋愛がほとんど肉体的欲望と同じ意味を持つ年代なのに男も女も肉体をもてあますことがない。何があってもいらいらなどしない。クールにことばをあやつる。人生をわかった気でいる。男の恋人が殴り込んできても、こんなときはこうするのよネといった具合で、本音などぶつけない。殴り込んだ女の方も、男をとられたらこうするのよネといった感じである。そうしたいからそうするのではなく、そんなふうにする一つの形式があるからそうするまでだといった感じだ。つまり、他人に深入りしない。自分にも深入りしない。(本音をぶつけ、傷つき傷つけられることがやさしさであることを理解しようとしない。)そのかわり物にのめりこみ、「オッシャレー」を楽しむ。すべてを「クロワッサン」的ファッションにしてしまう。
 かつて大林宣彦は少女趣味いっぱいの映像をつくった。それは笑える世界だった。しかし森田芳光のつくりだしたのはユーモアではなく本気の映像である。リアルである。孤児の少女やオカマの親子があんな立派なキッチンをもてるはずがないとは思わせない。二十歳ちょっとすぎのガキがわかったような口をきけるはずがないと思わせない。そんな思いが起きるまえに、あ、豪華なキッチンと思わせる。何か魅力的な笑顔だと思わせる。そうしたリアルさをもった映像を森田芳光はつくりだしている。
 あまりの恐怖に、これがいい映画なのかどうか感じる余裕がなかった。


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