シャイン

 とても不思議な映画である。
 ディビッド・ヘルフゴッドという実在のピアニストを描いているのか、ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番を描いているのか、どうにもわからない。
 ラフマニノフにとりつかれた一人のピアニストの半生を描いた、といえば簡単なのだろうが、どうにも割り切れない。二つのものが溶け合ってしまう。絡み合って、どこからがラフマニノフの曲の激情なのか、どこからがピアニストの感情なのか、どうにもわからない。そして、そのわからないということが、胸をしめつける。はらはらさせる。
 ラフマニノフの音譜がディビッド・ハルフゴッドという人間の顔になり、眼差しになり、指になり、愛を求めて苦しむ精神そのものになっていくような気がしてくるのだ。

 映画の始まりの部分で、ラフマニノフは、ヘルフゴッドの父が聴くレコードから流れてくる。少年のヘルフゴッドにそれはどんな風に響いたのだろうか。こころから好きと感じたのだろうか。たぶん違うと思う。父はラフマニノフが好き。この曲を弾けたら、父は自分を愛してくれるかもしれない−−そんな思いが少年のこころを横切らなかっただろうか。
 夜中に耳で覚えたラフマニノフをたどってみる少年。そのピアノの音は、曲の始まり同様、何かにすがるような、苦しく、寂しく、切ないものがある。
 映画の中程当たり、青年になったヘルフゴッドの弾くラフマニノフ。彼の胸にどんな思いが渦巻いているのだろうか。少年を愛していると言いながら、少年が才能を開花させ、父親の手の中から飛び去っていくのを、何とか引き止めようとする父。そんなふうにしか少年を愛することができない父の感情を知り、どうして少年の思いのままにさせてくれないのかと悩みながら、激しく対立し、その対立から逃れてきた少年。愛憎の渦巻いた日々。そうしたものが、ラフマニノフの曲のなかで、激しく思い浮かび、さらにその思いがラフマニノフの音譜を燃え上がらせたのか。ピアノの音が消え、青年ヘルフゴッドの鼓動がピアノの音のかわりにホールに響きわたる。そして、次の瞬間、すべての音が消えてしまう。何もかもが溶け合い、消えてしまう。沈黙。沈黙なのに、その奥に激しく響きわたる音がある……。何という激情だろうか。
 −−それは青年ヘルフゴッドにとって、幸福だったのか、不幸だったのか。音楽が、あるいはラフマニノフが完全に自分と一体になってしまったことは、幸福だったのか、不幸だったのか。

 一瞬の完全なラフマニノフとの一体化のあと、精神を病み、音楽家ら離れてしまうヘルフゴッド。−−そして、再び、音楽を取り戻し始める成人してからのヘルフゴッド。この後半の部分は、静かで、深く、とても美しい。
 レストランでピアノを弾く。ヘルフゴッドが誰であるかも知らず、客は耳を傾ける。そして、純粋に彼のピアノを美しいとほめてくれる。彼の音楽を愛してくれる。彼に何も期待しない(コンクールでの優勝など期待しない)で、ただ彼のこころと指とが一体になり、紡ぎ出す音を美しいと思い、その音楽を愛してくれる。
 その愛のなかで、切なさや、苦しみや、怒り、悲しみ、憎しみ、あらゆる感情が解き放たれて輝き始める。のびやかになっていく。父が教えてくれた感情でも、音楽学校の教師が教えてくれた感情でもない。ヘルフゴッド自身の感情が自立していく。健やかにそだっていく。まるで一つの曲が完結へむかって自立していくように……。
 美しい。とても美しい映画だ。

 ヘルフゴッドののびやかな輝きを表現したジェフリー・ラッシュも素晴らしいが、少年、青年のヘルフゴッドを苦しめた父、アーミン・ミューラー・スタールの愛憎の混じった演技も素晴らしい。その深い暗さ、闇の感情の輝きが、ピアノ協奏曲の、ピアノの旋律を彩るオーケストラのように思えた。占星術師の女優も、見終わったあとから、こころの奥で静かに輝きはじめる不思議な存在だった。


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