奇跡の海

 主役のベスを演じるエミリー・ワトソンの表情にみとれてしまった。
 美人ではない。すくなくとも私は彼女を美人とは思わない。美人ではないのに、みとれ、はらはらし、抱きしめたくなった。
 結婚式の寸前、なかなか到着しない夫を待つ彼女の顔にあらわれる苛立ち、やっと夫が到着したときに見せる喜びと怒りの一緒になった表情。「ばかばかばか」と言うように、夫の胸にすがって、すがりつきながらその胸を叩くしぐさの激しさと甘え。その少女っぽいあからさまな感情にびっくりしてしまった。不安に暗くなっていた目が輝き、口許が微笑み、頬が紅潮する。まるで本当の人間(役者ではなく、そこにたまたま存在した人間)を見ているような気持ちになった。
 映画なのに映画であること、つまり、これが芝居であることを忘れてしまった。
 初めてのセックス、トイレに誘い込んで、「抱いて」と迫るベス。その大胆さとは裏腹に、初めてのセックスに対する驚き。興奮。あるいは、ベッドで初めて見る男の体に対する好奇心とためらい。その表情が、何ともいえない。こんな純真な、こんなに一途な愛の瞬間があるのかと、驚き、うっとりしてしまう。
 対するヤン役のステラン・スカルスゲールドの表情もすばらしい。
 初めての「愛」の前で、一瞬たりとも同じ表情を見せないベス−−その瞬間瞬間を、きっちりと受け止め、抱き寄せ、抱擁する力。一人の女が花開いてゆくのを、しっかりと包み込み、花開く一瞬一瞬を、温かく支える微笑み。−−こちらも、演技を見ているというより、本当の恋人同士を見ているような感じになる。
 この二人の雰囲気、表情のすばらしさ−−これだけで、この映画は完成している。もう、いうことはない。

 実際、ストーリーなど関係ない。
 事故にあった瀕死の夫。その事故の原因が、夫に会いたいと願った自分の欲望のせいだと感じるベス。そのベスに、他の男とセックスしろと命令する夫。他の男とのセックスの話をしてくれれば元気になる、という夫。ためらいながら、その命令に従うベス。
 そこに存在するのは嘘と、相手への思いやりと、苦しみの、分離できない形で結びついた何物かだ。道徳とか、神への信仰とか、いろいろな問題も含まれているだろう。しかし、そんなややこしいことはどうでもいい。
 ただひたすら一人の男を思い、愛し、その命のあることを願う女のこころがあるだけだ。新婚生活ではあれほど輝いていたベスの顔が、輝きを失い、疲労し、悲しみのなかに沈みはじめる。ときおりヤンがみせる微笑みの前で輝く以外は……。そして、彼女が、他の男とのセックスに苦悩すればするほど、その苦悩の奥で、夫への一途な愛が燃え立つのがわかる。

 映画ではなく、エミリー・ワトソンという一人の人間(女)の美しさ、そのこころを、けっして汚れない愛を描いた実際の話だと信じたくなるような映画だ。映画であること、スクリーンで展開されていることが虚構であることを忘れ、そこに登場する人物にこころから同情し、共感し、同時に、強く励まされていることに気づく。そうなのだ。同情しているのでは決してない。ベスの幸福を祈っているのではない。ベスの苦悩をあわれに思い、涙しているのではない。ひたすら励まされているのだ。その純真で激しい愛の力に、私こそが励まされているのだ−−そんな気持ちになってくる。
 ベスの死、その悲劇的な結末−−それが悲劇であるにもかかわらず、とても晴れやかな気持ちになる。ただ、本当に美しいもの、汚れのないものを見た、という気持ちだけが残る。
 何も言うことはない。今書いてきたことすべてが、まったく無駄なことのような気がする。ただ、ありがとう、と、それだけを言いたくなる映画だった。


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