コーカサスの虜

 チェチェン人の老人がロシア兵を二人捕まえ、自分の村に連れていく。ロシアに捕まっている自分の息子と捕虜交換するためだ。彼の計画は、自分の息子が脱走途中に射殺されてむだに終わってしまう。ラスト近く、老人はロシア兵を銃殺するふりをして山のなかで解放する。
 ほっとする。人間っていいものだなあ、としみじみ思う。その瞬間、とんでもないことが起きる。ロシアのヘリコプターが四機あらわれる。兵士は自分を助けにきてくれたものと思い、必死に手を振る。声をはりあげる。しかし、ヘリコプターは兵士が見えない。兵士の頭上を越えて、彼が捕虜としてとらわれていた村の方へ飛んで行く……。
 その瞬間、何が起きたのかわからなかった。ストーリーの話ではない。私自身のことである。私のなかで、何かが、がらりと変わった。変わってしまった。老人の人間らしい寛大な愛に、あたたかな気持ちになっていたのに、その自分が消えてしまった。胸があつくなり、涙がにじんでくる。その涙の水面を破って、全く別の涙が体の奥から、棒のように突き上がってきた。涙がとまらなかった。こんな体験ははじめてだった。

 涙のなかで、幾つものシーンを思い出した。
 少女が祖母の形見の首飾りをつけるシーン。首を傾げて鏡に姿を映してみる様子。その首飾りを若い兵士がほめる。その兵士に、飾りの一つ一つについて説明する少女。−−あわい恋が始まっているのだ。恋してはいけない相手に、ほのかな恋を、少女は、そんなふうにして語るのだ。いや、恋ではないかもしれない。ただ単なるこころの交流、ふれあい、といったものだろう。
 恋ではなく、こころのふれあい、といった感じが、この映画の素晴らしい点だと思う。恋以前の、こころのふれあいだからこそ、この映画はすばらしいのだ。
 人がそばにいる。そのとき、人はどうしても人を愛さずにはいられない。その人とこころのふれあいをしてしまう。恋ではない。愛ではない。いや、愛かもしれないが、それは恋愛ではない。同じ人間としてそれあいたい、一緒の時間を持ち、一緒の感覚を持ちたい。それは基本的な人間の欲望だ。純粋な欲望だ。
 少女と兵士だけではない。二人の兵士も、最初は対立している。少尉(?)は若い兵士のために捕虜になってしまった、こいつはグズだ、と思っているし、若い兵士は少尉は冷たい人間だと感じている。しかし一緒に足かせをはめられて寝起きしていれば、いがみあいつづけてはいられない。しだいにこころがなじんでくる。ふれあってくる。
 サッチモのジャズにあわせ、足かせをつけたまま、二人が踊るシーンの楽しさ。美しさ。音楽の、命のすばらしさ。とらわれているのに、とらわれていることを忘れ、こころは、音楽の国へ駆け出し、音楽のなかで一緒に解放されている。音の喜び、音にあわせて躍動する肉体の喜びがスクリーンいっぱいに輝いている。同じ時間を、同じ楽しさを、一緒に味わうことのできる喜びがあふれている。こういうシーンは、本当にこころをまろやかにしてくれる。うれしくて、胸があつくなる。生きているということが、とても素晴らしいと実感できて、思わず涙があふれそうになる。
 兵士と見張りの老人のふれあいも素敵だ。少尉からサングラスをもらい、喜ぶ老人。「舌を切られたんだって?」「前は歌が好きだったんだって? 何か歌ってくれないかな」そしてハミングする老人。そこには、単純な、純朴なこころの交流があるだけだ。一緒に人が生きている。生きている時間を少し輝かしてみようかな、輝かせたいな、という思いがあるだけだ。
 少女が兵士に踊って見せるのも、手先の器用な兵士が鳥のおもちゃを作って少女にプレゼントするのも、兵士が時計を修理するのも同じだ。
 人は自分にできることをし、人はその行為を尊重する。尊敬する。そんな人間関係が、あたたかく残っている村の生活が、その基盤となっている。(ロバをつかった脱穀のシーンもきれいだし、山の下から刈り取った草を運んでくるシーンも美しい。山並みがきれいだし、その村も貧しいけれど、非常に整然としており、静かで美しい。村人が自分たちのことを歌った歌も、素朴で、少し悲しく、しかし誇りに満ちていてとても美しい。)
 この尊敬は捕虜の兵士にもはらわれる。
 地雷を兵士に探させるという危険なことを村人は強いるが、同時に、無事に地雷を見つけ出し処理した行為に対しては敬意をはらう。足かせをはずし、食事もふるまえば、ボクシング(レスリング?)を楽しみもし、また、そのボクシング風の試合をどう乗り気っていいかわからずに変な叫び声をあげる若い兵士を笑って、「あんたが強いよ、負けたよ」と、勝ちを譲ったりもする。
 なんという楽しさ。なんという喜び。これが戦争を描いた映画とはとても思えない。
 見ていてうれしくてうれしくて、出てくる人間すべてが好きになってしまう。

 その美しさ、今見てきた美しいものが、人間の愛、人間を愛さずにはいられない人間の愛そのものが、根こそぎ、ヘリコプターからの攻撃で消えてしまうのだ。一瞬のうちに跡形もなくなってしまうのだ。
 なんという野蛮だろう。なんとうい非寛容だろう。
 映画であることを忘れてしまう。映画であることを忘れて、絶望の涙があふれてくる。少女のはかない恋が実らなかったことより、そのはかない恋を、恋と呼べないによう恋を、そのこころそのものがもうなくなってしまった、消えてしまったということに、涙があふれてくるのだ。老人の、ただ、息子を取り戻したいとだけ思ったこころ、息子を愛するこころが、もうそこに存在しなくなったということに涙があふれてくる。「私はここにいる、生きている、村を攻撃しないでくれ」そう叫んだこころが、そのこころのまま、無視され、存在しえなくなったということに、涙があふれてくる。美しい山の風景。川から運んだ石でつくった家家。自分たちの手で、足で、しっかりと生きている人人。その命が消えてしまったということに、涙が止まらなくなるのだ。


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