うなぎ

 夜の川。川底にひそむうなぎをヤスが狙う。ヤスで突き刺す。うなぎが暴れ、砂煙が上がる。引き上げたヤスにうなぎがからむ。白い腹がうねる。くねる。そのとき、きずついた命の悲鳴が闇に光る。
 このシーンを忘れることができない。映画を見ている間中、どこからともなく、ふっと浮かび上がり、白い腹の歪んだ怒り、激しい悲鳴が聞こえる。
 もちろん、うなぎの悲鳴などというものは実際には聞こえない。それは私の錯覚にすぎない。幻聴にすぎない。だからこそ、それが気になる。忘れることができない。

 映画の主人公(役所広司)は、妻の浮気を知り、妻を殺す。
 映画の冒頭、私たちは、実際に、妻の浮気の現場を見る。男と裸で交わっているところを見る。しかし、それは本当のことだったのか。「うなぎの悲鳴」を聞いた後では、それが私にはわからない。
 男は妻の浮気を「密告」の手紙で知る。男のことろへ妻が浮気をしているという手紙が届く。一回ではなく、二回も。差出人はわからない。それはそれでいいのだが、何とも不思議なのは、男がその手紙を満員電車の中で読んでいるシーンだ。それは初めて読むというより、どこかで一度読み、それを再び読み返し、確認しているという感じなのだが、人は満員電車の中で、そんなものなど読むだろうか。それが私には疑問だった。
 その疑問は、「うなぎの悲鳴」を聞いた後では、疑問ではなくなった。あれは男の妄想だったのではないか、と思えてきたのだ。「密告」の手紙は、男の心の「悲鳴」だったのではないか、という気がしてきたのだ。(男は確かに妻を殺し、妻を殺したために刑務所に入っていた。それは事実だが、実は裁判がどのようにおこなわれたのか一切描かれていない。妻の浮気という問題は、どのような事実として、社会の中で「現実」として受け止められたのか、そのことはわからない。本当に浮気していたのか−−浮気の目撃は男の幻覚ではなかったのか−−それはわからない。)男自身も、映画の途中で、「密告」の手紙は一体だれからのものだったのだろう、と悩むシーンがある。実際に手紙などあったのだろうか、と悩むシーンもある。

 男は、どうも、自分のこころの「悲鳴」を「悲鳴」として体現できないタイプの人間である。もちろんだれもが「悲鳴」を「悲鳴」として声高にあらわすわけではない。「悲鳴」を抱えながら、それを抑えて生きている。抑えて生きているのだが、ときには、それを何かの形で、外に出してしまわないことには、どうにもならないものだと思う。その処理の仕方がどうにも下手くそな人間なのだと思う。(そのようなタイプの人間として描かれているように思う。)
 これは、もう一人の男(柄本明)と比べるとき、はっきりすると思う。主人公につきまとう男もやはり妻を殺した。(理由はわからない。)
 主人公は、妻の浮気を目撃し、人間不信に陥り、だれにもこころを開かず、うなぎを相手に独り言をいうことで満足している。彼は妻を殺したことを反省しているのかどうか、よくわからない。それほど、こころというものを外に出そうとはしない。たぶん、反省などしていない。反省しているかもしれないが、それは柄本の演じる男の反省ほど切実ではない。(手が、骨につきあたった包丁の感触だとか、内臓をえぐったときのぬくみとかを覚えている、忘れられない−−ということばが出てくるが、それは日常そのものをおびやかすほど強烈ではない。少なくとも、男は、そうした悪夢をこころの奥に抑えておく術を知っている。抑えて日常を暮らしている。−−彼は、こころの「悲鳴」を内に込めてしまうタイプの人間であることが、ここでも描かれている。)
 一方、柄本の演じる男は、常に妻を殺したことを悩んでいる。どうにかして、妻を殺したことをすっぱりと忘れ、新しい人生を始めたいと思っている。役所の演じる男のように、まったく新しい人生を始められたらどんなにいいだろうかと苦しんでいる。その苦しみのために、役所の演じる男の幸福を壊すことしか思いつかない。男の「悲鳴」は、そんなふうにねじれた形で噴出してくる。まるで、ヤスでつかれたうなぎの白い腹を見るような感じだ。黒い背中、白い腹、それがねじれることで、よりいっそう強烈に見える。そんな感じだ。「般若神経を写してみても、墓参りをしても楽にならない。人を殺してしまった人間には数珠くらいしかすがるものがない」という叫びが何とも切実である。何をしたって、妻を殺したという事実は消えない。そして、それを背負いつづけるしかないという苦しみ。一方で、新しい人生を始めたいという欲望。セックスをしたいという欲望。生きているということを実感したいという欲望がある。それが絡み合い(うなぎの黒い背中と、白い腹のように、)ねじれ、もがく。それは確かに醜い。醜いが、その醜さが人間の命というものだろう。

 市原悦子が演じる女−−役所のところに転がり込んだ女の母親−−も、柄本の演じる役に共通している。資産家であるが、精神を病んでいる。金で男を思いのままにしようとするが、どうにもうまくいかない。セックスがしたいと悩んでおり、どうにもならない欲望をフラメンコを踊ることでまぎらわせている。彼女もこころの「悲鳴」を押し殺すことのできない人間である。こころの「悲鳴」をむき出しにする人間は、どうにも社会的には容認されない。人はだれでも「悲鳴」を抱えており、それをみんながみんな声高に叫んでしまっては、世の中が騒音だらけになり、日常が営めなくなるからかもしれない。

 映画を見ているうちに、こころのなかに押さえ込んだ「悲鳴」がだんだん聞こえてくるようになる。暗い泥の川に潜んでいるうなぎのように、人間のなかに「悲鳴」が潜んでいるのが見えてくる。そして、その隠された「悲鳴」こそが人間の命の支えなのかもしれないと感じ始める。
 人のこころを拒みつづけていた主人公は、映画の最後の方で、一人の人間の「悲鳴」を聞き取る。彼のもとに転がり込んできた女の「悲鳴」を聞き取る。
 女はもちろん、声を出して泣き叫ぶわけではない。どうしようもない男の子供を妊娠している。それがだれの子供であるか、と、彼女をどうしようもない状態に追い詰めた男が問うとき、主人公は「私の子供だ」と嘘をつく。
 頼まれたわけではない。男は、女の「悲鳴」を聞き取り、その「悲鳴」を受け止めることが人間として生きるということだと感じたのだ。それは、もしかすると、男にとって初めて聞いた人間の「悲鳴」だったかもしれない。男は今までだれの「悲鳴」も聞かずに生きてきたのかもしれない。だれの「悲鳴」も聞かなかったからこそ、自分でも「悲鳴」をあげることをしらなかったのかもしれない。「悲鳴」をあげることを知らなかったからこそ、柄本のあげるあからさまな「悲鳴」も「悲鳴」として感じることができなかった。受け止めることができなかったのだろう。

 闇にうごめく「悲鳴」−−ヤスにつかれたうなぎのように、黒い背中と白い腹、いつも人に見せている部分、見せながら何かを隠している部分と、人には見せたことのないやわやとした悲しい部分、弱い部分(腹は非常に弱い部分だ)が、くねる。くねりながらきらめき、そのきらめきのなかで、悲しいけれど、どうしようもないものだけれど、新しい生が始まる。
 人間の生について、深く考えさせられる映画だった。


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