マイケル

 この映画はたいへんユニークだ。「女性」を非常に強く感じさせる。テーマが女性問題であるわけではない。声高に女性の権利を主張しているわけではない。女性の官能を、女性の視点から描いているわけでもない。女性のやさしさや繊細な感覚、きめの細かい情緒を描いているわけでもない。それでも非常に「女」を感じさせる。「女」がそばにいる、という感じがする。しかし、その、そばにいる感じというのは、「異性」という感じの「女」ではなく、つまり、一種の緊張感をともなうものではなく、不思議な安心感のある雰囲気なのだ。それは、幼いときから一緒に遊んでいる女友達、仲のいい姉妹、あるいは母親がそばにいる感じに似ているかもしれない。

 アンディ・マクドゥエル、ウィリアム・ハートらが天使(ジョン・トラボルタ)に会いに行くシーンがある。田舎のつぶれかけたモテル。
 「いい匂いがする。パンを焼く匂いかしら。」とアンディ・マクドゥエルが言う。トーストするではなく、ベイクドの方の「焼く」である。ウィリアム・ハートら、連れの男二人はそんな匂いに気づかない。気づかないから、アンディ・マクドゥエルは、何度も「パンを焼く匂いがする。いい匂いがする。」と言う。
 匂いの正体は天使である。天使の汗が、甘い匂いを放っているのである。それも内側からふわふわとあふれてくるような感じ、あたたかく体を包んでくれる感じ、幸福で体を包んでくれる感じで広がってくる……。
 その匂いに、男は気づかない。
 この感覚のすれ違いが非常におもしろい。
 あたたかな匂いにまったく無頓着な男。そんな匂いなどしない、とさえ言いたそうな二人。なぜ男はその匂いに気づかないのか。彼らは天使に会う、という目的意識にしばられているためだろうか−−と書くと、たぶん、うがちすぎになるだろう。
 しかし、ここには確かに女と男の違いが正確に描かれている。ある状況の中で、感覚全体を開いて、状況にとけこむ女。全部の感覚を開いて状況を把握するのではなく、ある感覚を締め出すことで状況と向き合う男。−−男からは、女は無駄なこと、無意味なことをしている、と見える。「パンの焼く匂いがしようがしまいが、天使に会うことと関係ない。人が住んでいれば、そこでパンを焼いているということは十分に可能性としてありうる。それだけのことだ。」女は、男のこうした態度が、そっけなく、冷たいものに感じられるかもしれない。「今ここで、いい匂いがしている。幸福の匂いがしている。それをどうして味わってみようとしないのか。その幸福にこころを酔わせてみようとしないのか。」
 これは本当は重要な問題である。それを重大風にではなく、さりげなく提出する監督の技量に驚く。スマートな処理に驚く。

 映画は、簡単にいえば、何度も恋愛に失敗し傷ついたアンディ・マクドゥエルとキャリアをうしない冷たい心になってしまったウィリアム・ハートを天使が結びつける、というストーリーである。ありふれたファンタジーである。そのありふれたファンタジーをありふれたものではないものにしているのが、全編にあふれる「女」の感覚である。「女」にとってはなんでもないような−−なんでもないと感じるからこそ、今までだれも取り上げようとしなかったような感覚である。「パンを焼くあたたかな匂いが好き」といったような感覚である。「パンを焼く匂いをかぐと幸せを感じる」といった感覚である。
 この女の感覚は、男には理解できないものではないが、その幸福感を常に持続的に味わうということは、たぶん男の習慣にはない。ここに、男と女の大きなすれ違いがある。「パンの焼く匂い」などありふれている。ありふれているから、女は常にその幸福を味わい、ありふれているから男はそれを忘れてしまう。

 男が忘れてしまった感覚−−女が求めつづけている感覚−−そのすれ違いが随所にでてくる。
 天使をシカゴへ連れていく。男は飛行機で帰りたい。一刻も早く天使を連れて帰り、ニュースにしたい。天使(彼は、女の味方である。)は、そんなにすぐには行きたくない。途中で見たいものがある。味わいたいものがある。
 天使が見たいと主張するもの−−それは世界一の麻玉であり、世界一のフライパンである。なんだ、それは−−と男は怒り出しそうになる。そんなくだらないもの。何が世界一だ。何にもないから客寄せのためにでっちあげたものにすぎないではないか……。
 確かに、天使が見たいと言ったものは、くだらないものにすぎない。しかし、天使が本当にしたかったのは、あるいは、男に教えたかったのは、それがくだらないかどうかではなく、今という一瞬一瞬を楽しみ、そこでこころを解放するということ。一瞬一瞬のうちに生きる喜びを感じるということだ。
 ストーリーの途中で「北風と太陽」の寓話がでてくる。旅人のマントをどうやって脱がせるか−−というだれでも知っている寓話である。その寓話で勝ちをおさめる太陽とは何だろうか。相手と闘うのではなく、相手を包み込み、相手が自由にふるまえるようにする行為の象徴である。−−たぶん、それが女が求めているものなのだ。
 世界一の麻玉も世界一のフライパンもくだらない。それは麻玉やフライパンと闘おうとするからくだらないのだ。自分の価値観と比べてしまうからくだらないのだ。それを作った人がいる。それを作ったのは、私たちは同じ人間なのだ。そこには私たちの知らない感情がある。思いがある。それはいったい何?−−そう思えば、それは単純にくだらないと言えないものだろう。女は(天使は)麻玉の形に触れ、フライパンの形に触れ、それを作り上げた人の心につつまれて、自分を解放するのである。(こうした喜びを、男だけではなく、現代の女性、アンディ・マクドゥエルも忘れかけている。忘れているから、天使と一緒にフライパンを見に行くことをしない−−そうしたことも、実は、天使は伝える。)

 何かに包まれて心を解放する−−それは、しかし、甘えとは違う。ともに生きる喜びを味わうということだ。
 天使と多くの女が一緒にダンスするシーンが素敵だ。
 天使と二人の女が踊り始める。それを見て、次第に女が集まる。酒場中の女が一緒になって踊り始める。
 酒場で、女を囲んで男が踊るとき、そこには一種の魂胆がある。女とセックスするという魂胆がある。そして、そのとき男同士はライバルである。そのダンスは一種の闘争である。ところが、天使と女たちのダンスはそうではない。ただ、音楽のなかで自分の体を解放し、体をそんなふうに動かせることを喜んでいる。女たちはライバルではなく、一緒に生きる存在である。一緒にいるから楽しいのである。一人ではなく、大勢であることが、喜びを大きくさせているのである。
 そのときもいい匂いがする。「キャラメルの匂い」「綿菓子のにおい」、いや、そうではない。「クッキーの匂い」だという。バターと砂糖がとけて、あつくあつく焼かれる。そのとき、甘い甘い匂いがあふれてくる。やわらかくあたたかい匂いが体をつつんでくれる。それと同じ幸福感が、踊っている瞬間に、彼女たちをつつむ。そして、その匂いは天使からあふれている。女たちにあわせ、女たちが踊りやすいようにリードする天使の体からあふれている。
 (このときも、男たちは「甘い匂い」に気づかない。)

 アンディ・マクドゥエルとウィリアム・ハートは、彼女が自分の作った歌を歌ったことをきっかけに心を通わすようになる。恋をする。しかし、シカゴにたどりつき、天使が死んでしまった後、違ってしまう。
 仕事を辞めて去っていく男。それを引き止めようとする女。見つめ合って、その瞬間、女は気づく。男の目から、寛容さが消えている。人を包み込むあたたかさが消えている。「変わってしまった。」と言うしかない。
 このときのアンディ・マクドゥエルの表情がなかなかいい。あたたかい匂いにつつまれていたのに、北風が吹いてきて、その匂いを一遍に吹き飛ばされてしまった、という感じの驚き。悲しみ……。そのとき、確かに、それまで映画にあふれていた「クッキーを焼く匂い、パンを焼く匂い」が消えてしまう。あっと、驚かされる。消えてはじめて、あ、いままでここに「甘くあたたかい匂いが流れていた。なつかしく、幸福な匂いが流れていた」と気づく。アンディ・マクドゥエルの表情が、それをくっきりとつたえる。
 ここでも、女の求めているものが明確にわかる。あたたかい心を共有し、一緒に生きることなのだ。女は一緒に生きるという感覚が好きなのだ。
 映画は、いわゆるハッピーエンドで終わる。ストーリーは、いわゆる大人の恋愛ファンタジーにすぎないが、随所にあらわれる女の感覚、女が何が好きで何を楽しみたがっているのかが非常によくあらわれた映画だった。さりげなく、しかし、非常に力のこもったいい作品だった。


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