ロスト・ワールド

 映画の楽しみの一つに恐怖を味わうということがある。実際の生活で恐怖を味わうのは大変だが、想像力のなかでなら楽しみでもある。はらはら、どきどきしたい。はらはら、どきどきとはこういう感じか、ということをじっくり味わってみたい。
 スピルバーグは、そうした興奮をつくり出す天才の一人だった。『激突』も『ジョーズ』も恐怖が売り物だった。映画とは現実では体験できない(体験したくない)ことを、リアルに表現してみせる娯楽だ、ということを明確に自覚していた監督だったはずだ。どうやって観客を驚かせ、恐怖あるいは驚愕の世界へ連れて行くかを強く意識していた監督だったはずだ。
 それがいつの間にか、愛だとかヒューマニティーだとかを描くつまらない監督になってしまったようだ。たぶん『E・T』が、その最初のつまずきだったと思う。少年とE・Tとの交流を描いた、驚きも恐怖もない、お涙頂戴映画がなぜか大ヒットしてしまった。そのころからスピルバーグはおかしくなったのだと思う。
 前作の『ジュラシック・パーク』は、そんなスピルバーグの、久々の力作だった。古代の蚊の血液から恐竜のDNAを取り出し、恐竜を復元するというアイディアも、嘘っぽくて真実味があった。復元された恐竜も、やさしげな草食恐竜からTレックスまでバラエティーに富んでいて楽しかった。恐竜に魅せられ、恐竜に脅える人間の変化もリアルだった。恐竜に脅えながらも、子供を救おうとする大人の戦い、建物のロックをコンピューターで動かす少女の知恵、あるいは調理場のステンレスを鏡のように使って恐竜を錯乱させる一瞬など、実に楽しかった。
 『ロスト・ワールド』は、その続編である。どんな恐怖が待ち構えているのか。胸をときめかせて見たが、全く面白くなかった。
 理由は非常に単純だ。恐竜に「母性本能」あるいは「家族愛」という概念を持ち込んだためだ。恐竜が怖いのは、そうした概念と無縁だからだ。恐竜は人間の考えるようなものを基準に行動するのではない。ただ食欲を満たすだけのために、それが草食恐竜であろうか、いたいけな子供であろうが、あるいはよからぬことを企む悪人だろうが、関係なしに襲い、食べてしまう。基準がなく、誰でも彼でも襲ってしまうから怖いのだ。(『ジョーズ』が怖かったのも、だれも鮫の行動基準など知らないからだ。『激突』が怖いのも、トラックを運転している者がいったい何者なのかわからないからだ。彼がどのような基準、思考のもとに、車の運転手を追い詰めるのかわからないからだ。)
 『ロスト・ワールド』ではTレックスの行動の基準が、非常に早く示される。ジュリアン・モーレが演じる科学者が、恐竜も子育てをする、それを証明したいと口走るし、傷ついた赤ん坊のTレックスを、Tレックスの夫婦が奪い返しにもくる。恐竜は無意味に攻撃をしかけてくるのではなく、自分の家族を守るために攻撃をしかけてくるのである。
 なかにはわけもなく襲ってくる恐竜もいるが、それは非常に小さいものだ。小犬のようなものだ。それは恐怖というよりも、何かユーモラスな印象がある。もう一種類、夜の草むらで突然襲ってくる恐竜もいたが、それは自分たちの縄張りをあらされたからだろう。その恐竜も、どちらかといえば小型だ。ライオンぐらいの印象だった。
 メインの恐竜はTレックスであり、それは、母性愛で行動する。その行動基準が、全く怖くないうえに、なぜか恐竜に同情してしまう。子供を奪われ、それを奪い返すためにTレックスは行動する。子供を奪われたものが、子供を奪ったものを攻撃して何が悪いのかわからない。まるで恐竜対人間、ではなく、被害者対加害者という関係のドラマを見ている気持ちになってしまう。
 実際の結末もそうである。被害者である恐竜は子供を取り返し、加害者の中心人物を食い殺す。その過程を、主役である二人の科学者が手助けする−−という展開である。
 こんな映画が怖いわけがない。
 ああ、ひどい。スピルバーグはつまらなくなった、とつくづく思った。とりわけ最後の市街地を恐竜が暴れまわるシーンなど、どうみても『ゴジラ』を意識したものとしか思えない。他人のアイディアを借りるようなつまらない映画などスピルバーグだけにはとってもらいたくなかった。


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