コーリャ愛のプラハ

 一九八八年。プラハ。混雑する地下鉄のコンコース。男が迷子になった少年の名前を叫ぶ。
 「コーリャ」
 その瞬間、人々の足が一瞬止まる。一斉に声のした方を振り向く。それから再び歩き出す。
 人々が足を止め、振り返ったのは「コーリャ」という名前がチェコの子供の名前ではなく、ロシアの子供の名前だったからだ。
 ロシアに支配されているチェコ。その支配を苦々しく思っているチェコの人々。その苦々しい思いが、一瞬の反応となってあらわれる。それほど、チェコの人々のロシアへの反感は強い。
 これは、そうした時代の物語である。

 男はチェリスト。腕はいいが女にだらしなく、貧乏している。車を買う金が欲しくてロシアの女と偽装結婚する。女には子供がいた。その子供が「コーリャ」。女は男と偽装結婚したあと、すぐに西ドイツへ行ってしまう。ロシアから西ドイツへ直接行けないために、チェコを経由し、西ドイツへ行ったのだ。西ドイツには女の恋人がいる。男は、女の亡命のために利用されたのだ。
 女はコーリャを女の叔母に預けていった。子供連れだと亡命を疑われると思ったのかもしれない。ところが、その叔母が急病で入院し、コーリャは法律上「家族」になってしまった男が引き取らなくてはならなくなる。そのうえ、秘密警察が男を疑い始める。女が亡命するのを知っていたのではないか。手助けしたのではない。男は秘密警察の追及を逃れるために、残された子供と「家族」を演じなくてはならなくなる。
 こうしたいわくは、大人の世界のことである。しかし、大人の世界のことに子供は敏感である。特に自分が当事者である場合は、どんな複雑なことでも本能的に理解する。コーリャは母親に取り残されたことを本能的に知ってしまう。母親の都合で「父親」になってしまった男と一緒に暮らさなければならなくなったことを知ってしまう。しかも男は、自分のことをやっかい者だと思っている。何もかもわかってしまうから、子供はどんなに親切そうにあつかわれても、男に心を開かない。
 最初の出会い。男の家。コーリャは口をきかない。コーリャはロシア語しかわからず、男はチェコ語しかわからない。口をききようがないのだが、当然わかりそうなことにも一切反応しない。パンも食べようとしないし、お茶も飲もうとしない。男がいくらすすめても、おなかがすいているにもかかわらず。そのくせ、男が目を放したすきにお茶をのんでしまう。ようするに、我をはっているのだ。自分をこんなめにあわせた大人全員に、そんなふうにして抗議しているのだ。
 横断歩道を渡るとき、男は、子供に向かって手を差し出す。手をつないで渡ろうとする。ところが、子供はそれを拒む。一人で歩ける、一人で大丈夫だ。あんたなんかの世話にはならない、というように男に近い方の手を自分の背中に回してしまう。男の手の届かないところへ隠してしまう。これも子供の、大人に対する抗議だ。
 こうしたコーリャがとても子供っぽくていい。本物の子供を、ドキュメントで見ている感じがする。

 男に心を閉ざしつづけていた子供がやっと心を開くのは、入院している叔母を訪ねた帰りだ。叔母は死んでいた。男は子供にそれを告げない。ただ「眠っているので会えない」と言う。こうした異変も子供は敏感に察知する。突然、完全にひとりぼっちになったことを理解する。ひとりぼっちになったことを知らせまいとして男が嘘をついていることを何となくわかってしまう。横断歩道で、ふいに手を伸ばして、男の手をつかむ。以前は拒んでいた男の手を、自分から求める。
 そんなふうにして、男と子供の交流が始まる。
 ロシアのアニメを見たいと駄々をこねるコーリャのために、五人分の料金を払い、映画館に入る。誰もいない映画館で、アニメに没頭して、一人で笑い声をあげるコーリャ。それを見守る男。
 寂しくて夜泣きするコーリャのために、男は、昔の恋人に電話をかけ、ロシア語の童話を聞かせてやってくれ、と頼みもする。耳になじんだ言葉に安心し、眠りに落ちていくコーリャ。受話器をそっと取り、毛布をかけてやる男……。
 どのシーンも無理がなくて、とても素晴らしい。
 そんなふうに深まっていった男とコーリャの結びつきが一層強くなるのは、秘密警察の尋問のときだ。コーリャと男を引き離そうとする警察。またひとりぼっちにさせられるかもしれないと、本能的に知ってしまうコーリャは男にしがみついて離れようとしない。
 無意識的に、コーリャは自分を守り、また男を守っている。そうやって二人の間に愛が育っていく。
 そしてまた、この交流のなかで、男が成長していく。女好きでわがままだった男が、人を愛することを覚えていく。他人を理解することを覚えていく。その変化をズディニェク・スビエラークが、静かに演じている。

 こうした交流、愛の一番美しいシーンは、温泉地での演奏会のシーンだ。
 男は、子供をロシアの家庭に預けようとする福祉局から逃れて、二人で温泉地にやって来た。男はそこであいかわらずチェロを弾いている。そのそばで、コーリャは、誕生日にもらった小さなバイオリンを弾く。
 コーリャはもちろんバイオリンの正しい弾き方などしらない。ただキーコ、キーコ雑音を出すだけである。ふいに聞こえてくるその音に、指揮者はけげんな顔をする。男は知らん顔でチェロを弾く。カーチャも知らん顔でバイオリンを弾く。
 その不思議な合奏は、音楽としては聞くに耐えないものかもしれないが、本物の音楽だ。そこには音を出して一緒に楽しむ喜びがが輝いている。何もわからず、ただ男の真似をして、キーコ、キーコと音を出す。それは横断歩道でおずおずと差し伸べた手のようなものだ。最初はうまくつなぐことができない。どれくらいの力でにぎっていればいいのかわからない。ひょっとした瞬間にはなれてしまい、地下鉄で迷子になったように離れ離れになってしまうかもしれない。そんな危ういものかもしれない。しかし、離れながら、再び結びついたとき、その結びつきの強さ、温かさが、より一層わかる類のものだ。そこには完成した楽譜はない。楽譜が完成し、曲が完成するとは限らない。どこへたどりつくかわからない。
 だが、それが音楽なのだと思う。何もわからず、互いに違った音を出しながら、その音の出会いの中で、何か美しいものを探し出していく。美しいものを発見しながら、自分自身を育てていく。それが音楽なのだろう。ただ一方的に子供が正しい音を弾けるようになるのを待つのではない。子供が正しい音が出せるように指導するのではない。子供の放つ不思議な音、それに耳を傾けながら、自分自身の中にある可能性を広げていく。その可能性のなかへ、二人で一緒に出発するのだ。
 大人から子供へ、という一方通行ではなく、互いに触れ合い、何か新しい自分へと生まれ変わるのだ。

 二人に、別れは、突然やってくる。
 ロシアが(ソ連が、というべきか)崩壊し、チェコが解放される。西ドイツから母親がコーリャを迎えに来る。
 空港。母親を見つけながら、一瞬ためらうコーリャ。その背中をそっと押し出す男。母親に抱きつくコーリャ。
 別れの寸前、コーリャが男にキスをする。
 「さよなら、パパ。いつ会いにきてくれる?」
 もう二度と会えないだろう。わかっているから男は何も言わない。自動ドアがしまって、コーリャの姿が見えなくなってから男はつぶやく。
 「達者でな」
 ハッピーエンドというには少し悲しいこの終わりが、とても美しい。
 ラストのクレジットで、コーリャが歌う追悼歌のつたない声が流れる。男が葬儀の会場でチェロを弾いているとき、男の恋人が歌っていた歌だ。コーリャは何度も何度もそれを聞き、自然に覚えてしまったのだ。チェコ語だから、コーリャにはもちろん、意味などわからない。
 この意味がわからない、ということが、また非常に美しいことに思えて仕方がない。
 心の交流に意味などないのだ。意味などわかりっこないことが心の交流なのだ。子供が泣いているとき男は何をしたか。泣いていたとき、男が何をしてくれた。その行為の一つ一つの奥で、ほとんど意味のないことが育っていくのだ。あるいは「意味」にできないことが育っていくのだ、と言えばいいだろうか。「意味」ではとらえきれないいろいろなものが複雑にからみあい、そのからみあいが人間の行為を強いものにする。
 「意味」にできない、だからこそ、「意味」の呪縛をするりとくぐりぬけ、心はどこまでも飛んでいく。音楽にあわせて、国境を越えていく。コーリャが追悼歌を歌うとき、男はスメタナの「我が祖国」を弾く。違った曲が違ったまま、また違った思いを乗せたまま、のびやかにどこまでもどこまでも広がっていく。
 その広がりの中で、心が和らいでくる。
 二人はもう二度と会わないかもしれない。しかし、男が「我が祖国」を弾き、コーリャが追悼歌を歌うとき、二人はいつでも出会っている。そう感じるから、心が和らぐ。


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