もののけ姫

 「タタリ神」が山から里へ降りてくる。ひたすら突進し、人間を襲おうとしている。その異様な姿に魅了された。体に、皮膚をなくした剥き出しの肉のようなもの、形にならない不気味なものを寄生させながら、あるいは、体を突き破ってあふれだす不定形のものに突き動かされるようにして、ひたすら突進する。
 里へ逃げ後れた少女に襲いかかろうとする。その少女を救おうとする少年(アシタカ)。「タタリ神」を追いかけ、引き寄せる狩りの駆け引き。「タタリ神」に寄生する不定形のものが少年の腕にも襲いかかる。その恐怖のなかで、引き絞る弓。目を狙い、さらに引き絞る弓。その緊張とスピード。片目を矢で潰し、さらにもう一方の目を貫く矢。倒れる「タタリ神」。寄生していたものが死に絶え、巨大なイノシシの姿が現れ、そのイノシシが腐臭を放って崩れさる。その体から出てきた鉄の塊−−。
 イノシシは鉄砲で負傷し、傷つけられたことを、怨み、怒り、「タタリ神」になったのだった。

 「タタリ神」との戦いで腕にあざができた少年。少年は「タタリ神」に寄生されたのだ。このままでは、いずれはイノシシのように荒れ狂って死んでゆくしかない。少年はその呪いを解くために、西へ西へと向かう。「タタリ神」は西からやってきた。そこへ行けば何か解決が見つかるかもしれない。
 少年がたどりついたのは太古の森だ。森には巨大な動物たちが生きている。そして、巨大な山犬に育てられた少女(サン)がいた。彼らは森を守ろうとしている。「聖域」を守ろうとしている。
 一方、製鉄集団が森を切り開き、動物たちの領域を荒らそうとしている。エボシ御前率いる製鉄集団は鉄の原料を手に入れるために森を切り開くしかないのだった。
 さらにエボシ御前の作った鉄砲を利用して、森に住む「シシ神」の首を狙う集団がいる。「シシ神」の首には不老不死の力があるという。
 森、太古の暗い森は、静かな自然ではなかった。憩いの場ではなかった。波瀾と変化の最前線だった。戦いの場だった。少年は、その最前線に飛び込んで行く。
 この最前線を支配しているのは何か。「弱者」である。これが、この壮大な映画のテーマだと思う。「弱者」は状況を作り替えることで、生存を図ろうとする。「弱者」だけが戦いをし、戦いによって自分の立場を変えて行こうとする。
 その象徴的な存在がエボシ御前率いる製鉄集団だ。その集団で実際に鉄を作っているのは女であり、鉄砲を作っているのはハンセン氏病患者である。彼らは虐げられ、差別されてきた。彼らは武器を作る、武器を作る技術を確立することで、自分たちの場を確立していく。「弱者」ではなく、「強者」へと変身して行く。このとき、エボシ御前は、単に鉄を求めて森を切り開く自然の破壊者ではなく、同時に「弱者」の救済者なのである。虐げられ、差別されている人間を救い、人間が人間らしく生きる社会を模索している人間といっていい。
 一方、鉄砲の前で「弱者」になってしまった獣たち。彼らは人間が鉄砲で完全に武装してしまわないうちに、人間を襲い、殺し、そうすることで自分たちの生きている場を守ろうとする。「弱者」でありつづけることは、「弱者」として生存しつづけることではなく、死んで行くこと、滅んでしまうことだからである。今ならまだ間に合う。人間に支配されない森を守ることができる……。
 二つの立場に和解の場はない。この二つの戦いに、すべてが巻き込まれて行く。アシタカもサンも巻き込まれて行く。そして、そこに巻き込まれて行くのは、彼らが、また「弱者」だったからだ。アシタカは死んで行くイノシシに呪いをかけられた。サンは赤ん坊のとき、山に捨てられた。人間が山から逃げて行くとき、足手まといになり、捨てられた「弱者」なのだった。彼らもまた、戦いの中で自分の立場を確立するしか生きる道はないのだ。

 「弱者」の戦い−−「弱者」が「強者」に変身しながら戦う戦い。製鉄集団は鉄砲によって「強者」に変身し、動物たちは野生を怒りによって「強者」に変身しようとする。怒りのあまり「タタリ神」になったものさえいる。あるいは怒りのために「タタリ神」になる不安をおかしてまで、戦おうとする……。
 この映画が美しい(実際美しいとうか言いようがない)のは、そうした「力」(「強者」への変身)の暴走をくっきりと描いているからである。
 「弱者」は「武器」(鉄砲であり、「タタリ神」である)を身につけた瞬間から暴走する。それは「弱者」というより、「弱者」をのっとった「力」の暴走である。「力」にのっとられ、「弱者」は自分を守るという領域から暴走し、相手を破滅させようとする。
 冒頭の「タタリ神」の荒々しい行為がそれを象徴していた。イノシシは鉄砲によって傷つき、その痛み、苦しさから、怨みをつのらせ「タタリ神」になった。そのイノシシが復讐するのは鉄砲を撃った人間だけではない、鉄砲を開発した人間だけではない。人間ならだれでも襲おうとする。動物もまた暴走する。野生もまた暴走するのである。
 製鉄集団もそうである。彼らは単に鉄の原料を求めて森を切り開くだけではとどまらない。森を切り開くことを口実に、森を切り開くとき邪魔になる動物たちを殺す。自分たちの活動を安全におこなうため、という口実で美しい動物たちを殺戮する。
 「シシ神」の首を狙う集団も、単に「シシ神」の首を狙うだけではなく、その過程で、動物たちを殺し、動物たちを殺す製鉄集団を支援し、同時に、やがては邪魔になるだろう製鉄集団の破壊をも狙う。
 その戦いのなかで激情が爆発する。感情の激しさが輝く。激情の強さ、輝きが、残酷な戦いを「真理」に引き上げるといえばいいのだろうか。
 まるでギリシャ悲劇である。
 和解はない。ただ滅ぶだけである。森は破壊され、製鉄工場は破壊され、少女と少年は別れて行く。破壊を見つめる人間たちは、ただ自分たちが生き残っていることに安心し、今、自分たちが体験したことは何だったのか、わからず、呆然としている。呆然とできることを、ほっとして、喜んでいる。たぶん、自分たちのなかにある、何かわけのわからない感情(激しい感情)が、その破壊のなかで、燃焼し、昇華されたのを感じながら。
 私たちは、たぶん、そこで、感情の「原型」を見るのだ。戦うことの「原型」を見るのだ。「弱者」であることの「原型」−−その悲しみと、戦いの必然性を見てしまうのだ。
 そして、呆然とする。
 破滅的な気持ちにはならない。これもギリシャ悲劇と同じである。
 激しい惨殺のなかに、激しい感情の対立のなかに、それが激しいがゆえに輝く純粋なものがある。戦いを超えて輝くものがあることも知るからだ。
 それはたとえば、決意である。敗れるとはわかっていても、戦わなければならないという意志である。また、祈りである。サンがイノシシ神・乙事主に呼びかける「タタリ神」にはならないで、という叫びである。あるいは、無償の愛である。アシタカが「タタリ神」に飲み込まれたサンを助けようとする行為である。最後の命をふりしぼってサンを「タタリ神」から救い出そうとする山犬・モロの戦いがある。
 そして、とても奇妙なことなのだが、人間たちが動物たちと戦うために異様な匂いをまき散らし、獣たちの鼻を麻痺させる工夫のなかにも、不思議と純粋に輝くものがある。知恵の輝き、命の輝きがある。
 感情が意志になり、意志が命を引っ張って行くはりつめた緊張がある。
 私たちは、ここで、人間の行動のあらゆる「原型」を見るのだ。『もののけ姫』は、すばらしい「叙事詩」だ。


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