「コンタクト」への疑問

どこかに誰かいる。知らない世界に誰かいる。その誰かと接触する。それは非常な楽しみだ。接触は、私が知っている世界を広げるだけではなく、私そのものをも広げる。拡大する。あるいは、深める。つまり成長させる……。
この映画は、そうした人間の成長を描いた作品である。単に「宇宙人」(地球外生物)との接触、全く新しい宇宙船での旅を描いたものではない。
映画は、一人の少女がハム交信するところからはじまる。誰が答えてくれるかわからないが、少女は応答を求めて呼びかける。その呼びかけに、誰かが答える。場所を聞く。フロリダ……。予想を超える距離から届く声。それが少女を魅了する。ここから少女は出発する。少女の夢は広がり、彼女は、今、宇宙からの「声」に耳を澄ませる。巨大なアンテナ群に囲まれ、ひたすら宇宙の雑音を聞く。そこに、もしかすると「雑音」ではなく、メッセージがないか……。
そして、ついにある日、一つの電波をキャッチする。

このシーンまでは、私は、興奮して映画を見ていた。
幼いときに両親を亡くし、孤独な少女。その孤独から出発した、誰かを求める欲望の強さ。その欲望のために自分を抑え、鍛えることを知っている人間の理性−−その葛藤。絶望と喜びと忍耐。そうしたものが、ジョディ・フォスターの名演技もあって、まるで自分自分のこころのなかで生じたもののように感じられた。
ところが、それから先がどうもおかしい。
知らない誰か、どこにいるかわからない誰かと接触する−−という興奮が、彼女を取り巻く人間との接触に紛れてゆく。重点が、いま、ここにいる誰か、彼女を取り巻く人間との接触に重点が移ってゆく。
「宇宙人」の存在を発見したのは「誰」なのか。「宇宙人」と最初に接触をするのは「誰」なのか。−−いわば、権力闘争が始まる。その闘争に彼女は飲み込まれてゆく。「宇宙」にいる「誰か」を求め、ひたすらその探究心のために築いてきた「科学」が、人間のどろどろした「権力」の欲望にずたずたにされる。さらには「宗教」がからんでくる。「神」は存在するのか。その存在を「科学」は認めるのか。そして、その論争さえも、自分の「権力闘争」に利用しようとする人間が出てくる。
ドラマの舞台は、「宇宙」から、一転して「地上」に変わってしまう。これが私には、なんとも不可解だった。「地上」的な問題を描くなら、何も「宇宙」を題材にしなくてもいい。「科学」を題材にしなくてもいい。もっと人間の欲望を描くにふさわしい題材があるだろう……。
映画のなかには、「数学は宇宙の普遍的言語」といったような、それこそ「科学」の神髄にふれるようなことばも出てくれば、そのことばによって相手を説得するシーンも出てくる。そうしたシーンがあるだけに、余計に、くだらない人間の「権力闘争」の部分が、この映画の本当のテーマをぶち壊しているという印象がする。
* また、「権力闘争」を描くのに熱心なあまり、大切な「科学」がなおざりにされたのも残念だ。
唯一「科学」的だったのは3枚の暗号を分析する部分だが、3枚のそれぞれに合致する部分があるが、1枚足りなくて解読できない、と悩むシーンだ。この解読は3枚の暗号を立体的に組み合わせることで解決するのだが、この解読に手間取るのも、私には非常に不可解だった。合うところがあるなら、それを合わせてしまうのが、暗号解読の基本だろう。合わせた形が立体になったからといって、それは斬新でもなんでもない。
問題は、それから先にも色々あったはず(あり得るはず)だ。しかし、映画では、そうした問題は一切描かれていない。宇宙船の材質の問題。「宇宙人」が設定した強度と「地球人」が考える強度との差。認識の差がつくりだす様々な疑問。それが全く描かれていない。
これでは「科学」とはいえない。「科学」とは「疑問」と「疑問」を解決する方法の闘争なのだ。それを描かない「科学」映画など、すこしも面白くはない。
映画のなかの唯一の挫折が、完成した宇宙船が、「神」を信じる熱狂的な男によって爆破されることだが、その問題も、日本の企業が同じものを別の場所に作っていてクリアされる−−というのでは、これは笑い話だ。日本経済に対するブラックユーモアであって、「科学」とは何の関係もない。

最後の方の、いわば一番の見せ場であるジョディー・フォスターと父親の体面のシーンも、美しすぎて真実味がない。「科学」とは無関係な絵空事になってしまっている。
「宇宙人」が「父親」になってあらわれる−−これは、「宇宙人」が主人公の意識を読み取り、それにあわせて姿を見せているのだが、その「父親」が完全すぎて嘘になってしまっている。
私は今、『惑星ソラリス』を思い出している。
ソラリスの近くの宇宙船では不思議なことが起きる。宇宙飛行士がこころに描いたものが実際の存在となってあらわれる。ちょうど、ジョディーの父親のように。
しかし、違うことがある。ソラリスでは、あらわれる人間は完全ではない。たとえば『ソラリス』の主人公は死んだ妻を思う。そうすると「妻」があらわれる。昔きていたワンピースのままに。「妻」を抱こうとする。だが、「妻」のワンピースには、背中のファスナーがない。それは男が「妻」を想像するとき、背中のファスナーまで想像していなかったからだ。だが、この欠如によって、逆に、「妻」(宇宙人)が本物になる。「欠如」までも再現するからこそ、それは「真実」になる。
『コンタクト』の父親には、その欠如がない。それは、逆にいえばジョディーの記憶、想像力に欠如がないということでもある。しかし、これは「科学」とは逆の思考体系がつくりだした大きな過ちだ。「科学」などというものは「正解」が作り上げる世界ではなく、常に間違い続けるものが作り上げる世界なのだ。人間はいつでも間違える。いつでも間違えるからこそ、いつ間違えても、それが間違いであるとわかるようにするために「科学」がある。あるいは「数学的論考」がある。つねに間違いを発見し、それを訂正しつづけることが「科学」なのだ。
簡単に言ってしまえば、ニュートン力学では把握しきれない世界をアインシュタインの相対性理論はとらえることができる。それはニュートン力学のもっている「欠如」(間違い)をアインシュタインが「訂正」したということである。
「間違い」「欠如」の発見によって、人間は大きくかわる。
ところが、『コンタクトの主人公は、自分の「間違い」「欠如」というものを発見していない。だから、彼女の最後の弁明は、私には、全くの嘘に聞こえる。絵空事に聞こえる。そして、その絵空事は、彼女が否定している「神」そのものと、そっくりだ。「神」の存在証明と全く同じものだ。
なんだ、これは。これは「科学」の名を借りた「宗教」映画だったのか。

しかも、この映画の「神」が、また、ひどい。ひどすぎる。ことばでしか登場しない。「神」の具体的な姿を見せろ、というわけではない。「神」を信じる人間の姿、敬虔な姿というものを一切出さず、ただ「神」と言っているだけのおそまつさだ。
「神」−−それはたとえば『2001年』では、私は「黒い板」に感じた。猿がそれに触れる。これは何だろうと思い、それに触れる。何かわからないものに触れて、意識が変わる。その瞬間、「神」が存在するのだ。「疑問」を抱き、「疑問」を解明しようとするとき、つまり「科学」するときこそ、「神」はその人間のなかに存在するのだ。だから、人間はかわるのだ、「疑問」を解き、それを新しい方法として確立したときに。だからこそ、私は「黒い板」に触れ、猿が道具を使うことを覚えた瞬間に「神」が存在した、と感じる。
さらにはコンピュータ「ハル」と宇宙飛行士の戦い。「ハル」から、今で言う「ファイル」を一つずつ削除していくシーン。「ハル」が少しずつ狂いはじめる。最初に覚えたデイジーの歌を必死で歌う。そのシーンの緊張感、切なさ、悲しさ−−そこにも確かに「神」は存在するのだ。宇宙飛行士の思考を大きく変える何者かが存在する。存在したからこそ、宇宙ステーションは超高速で宇宙を旅し、どこかへたどり着く。そして、そこで今までの常識ではとらえることのできないものに触れる。見かけはありふれた部屋−−しかし、一度も見たことのない何者かが潜んでいる−−そう感じさせる部屋。
そうした不可思議なもの、自分の思考を完全に作り替えなければどうしようもないものが『コンタクト』にはない。つまり、「神」が描かれていない。「神」を描かず、ただことばで「神」と言っているだけの、とんでもない映画である。


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