ブラス!

 二人の男が話しながら歩いている。「バンドのカンパを求められても断ろう。カンパが必要なのなら、やめる、と言おう」「家計が苦しい、かみさんにやめろ、とせっつかれている」とかなんとか。−−正確に再現できなくて残念だが、この会話がなかなか興味深い。
 男たちが働く炭鉱は閉山間際だ。不況で家計も苦しい。それなのに男はブラスバンドなどをやっていて、それがかみさんにはどうにも気がかりだ。金のかかる「遊び」はやめて、その分、家計に協力してほしいとグチを言われたのだろう。こうしたことはよくあることだろう。そのどこがおもしろいのかというと、「かみさん」を出してくるところである。「かみさんがうるさいからなあ……」、というのは、本当はやめたいという気持ちなどさらさらないからである。「やめる」のは自発的な意思ではないのだ。
 「自発的」な思いではないからこそ、実際、二人はやめない。カンパを求められると、断るつもりだったのに、なけなしのポケットマネーを出してしまう。(ここには、ひとつワンクッションできごとがある。若い女性がブラスバンドの練習に加わり、彼らのバンドが少なからず華やいだという事情がある−−しかし、そうした事情を差し引いてもなおあまりある思いがある。バンドをつづけたいという思いがあるから、彼らの思いは揺らぎ、かみさんを裏切るかたちで、バンドをつづけてしまう。)
 この感じが非常にいい。ブラスバンドがやめられない、という感じが、実に自然に出ている。音楽に魅せられている、音楽こそが世界で一番素晴らしいもの−−というような声高な主張ではなく、なぜだかわからないが、つづけてしまう、という感じが素朴で、素朴ゆえにストレートに伝わってくる。ただ「好き」なのだ。「だめ」といわれても、どうしても引き寄せられてしまう。それは若い女と一緒にいたいという「不純な」といおうか「純粋な」といおうか、どういってもいいような、ふいにしのびこんでくる感情だ。

 もう一つ、こんなエピソードがある。
 男のトロンボーンは壊れている。演奏中にばらばらになってしまう。新しいトロンボーンが欲しい。でも、金がない。ローンを抱え、それを払わなければ家財道具を持っていかれる。その男が、いよいよバンドも解体という日を前に、トロンボーンを買ってしまう。その結果、どうなるか。ローンが払えない。家財道具が差し押さえられる。妻は、夫のポケットから領収証を見つけ出す。ローンを払うべき金を頭金にして、男がトロンボーンを買ったことを知ってしまう。……我慢できずに、妻は、子供をつれて家を飛び出してしまう。
 男はなぜトロンボーンを買ったのか。買えばどうなるかわかっていたのに、なぜ買ってしまったのか。
 ただ吹いてみたかったのだ。美しい音を出してみたかった。彼の行動を支えているのも、世界で一番すばらしいもの−−それが音楽だ、という明確な主張ではない。彼は、そんなふうには思っていない。もし世界で音楽が一番すばらしいものなら、妻や子供がいなくなっても涙など流さない。男には家族がかけがえのないものであることはわかっている。愛が大切なものであることがわかっている。生活を維持していくことがとても難しいことであることもわかっている。わかっているけれど、手がのびてしまう。新しいトロンボーンに。それは正しい音を表現してくれる。その音は、みんなの音と一緒になり、楽しい音楽になる。彼のトロンボーンさえ壊れていなければ、彼らの音楽は一段とすばらしいものになる。−−その瞬間、ただそれだけの夢に、男は迷ってしまう。この迷いが美しく、切なく、涙が出る。

 迷ったとき、人は、何を基準に行動するのだろう。何に基づいて判断するのだろう。「理性」なんかではないのだ。「欲望」にしたがってしまうのだ。
 その「欲望」がどんなことを引き起こすかわかっていても、人間は、それを抑えることができない。だからこそ、全ての人間は「悲劇」を引き起こす。涙を呼び寄せる。しかし、それが美しい。−−そんなことをしなければ、もう少し幸せに暮らせるのに、とわかっていても、その理性的判断を逸脱し、横道へそれていってしまう命が、美しく、悲しい。−−どうすることもできない、人間の命の、なまなましい形がふいに見えてしまう。それは、その人だけの命の形なのだ。この男は、たまたまトロンボーンを取った。しかし、ある人間は絵の具を取るかもしれない。ある人間は一冊の本を取るかもしれない。その選択は、誰にもわからない。だからこそ、それをその人の命と呼ぶのだ。
 プラトンの対話篇のなかにソクラテスが死刑になる寸前に笛を練習する場面がある。それを見た知人が、なぜそんなことをするのか、もう死んでしまうのに、何の役にも立たないのに……と尋ねる。ソクラテスは、その曲を死ぬまでに習いたかった、マスターしたかったというような返事をする。−−理性的に考えれば、全くむだなこと、何の役にも立たないこと−−そのなかに何か人間を動かすものがある。人間の命は、そんなところに、ふいにあふれてくるものなのだ。

 その命を、社会はなぜ守ることができないのだろう。育てることができないのだろう。
 ラッパを吹く。みんなで音を出し合って、一つの音楽をつくる−−そんなささやかな喜びを生きている人々を、社会は平然と押しつぶす。彼らから職を奪う。「今なら高額の退職金、3年後なら安い退職金」などと非情な選択肢をつきつけ、平然としている。「何だかんだとえらそうなことを言って、やっぱり大金の方を選んだじゃないか。おまえたちはやっぱりそんな人間じゃないか。」と冷たく突き放す。
 「アマチュアブラスバンドが何だ。ラッパなど吹かなくても人間は生きて行ける。ラッパの音なんか聞かなくても人間は生きて行ける」−−それは確かにそうなのだが、ラッパが吹きたい、ラッパの音を聞きたい、というのも一つの紛れもない人間の欲望なのだ。それは、けっして抑えきれない欲望なのだ。命そのものなのだ。−−その命は確かに社会に有効ではないかもしれない。その時間を他のことに使えば社会はもっと豊かになるかもしれない。だが、それでは解決しない問題があるのだ。解決しない問題が残るのだ。ラッパを吹きたい、みんなと一緒に一つの音楽をつくってみたい、という欲望は、けっして救われないのだ。ラッパを吹きたいという欲望、ラッパを吹くとき輝く命は、ラッパを吹くことでしか輝かないのだ。

 彼らのブラスバンドは全国大会で優勝する。「優勝」は彼らの夢だった。しかし、それ以上に、その会場で演奏すること。自分たちの命はラッパを吹くことで輝くこと−−炭鉱に潜り石炭を掘り出し、そうすることで社会に貢献する一方、そうした生活とは別に、こうやって音楽を楽しむことを知っている、私たちには私たちだけの命がある、ということを伝えること−−それが彼らの夢だ。ことばにならない夢だ。それはなかなか人にはわかってもらえない夢だと思う。お互いにも伝え合いにくい夢だ。だから、かわりに「優勝」という夢を口にするだけだ。本当の夢は、ただラッパを吹くことだけだ。
 そうした命のあり方を平然と押しつぶす社会、経済の構造−−そうしたものへ、この映画は静かに抗議している。
 ラストのバッキンガム宮殿の前を彼らのバスが行くとき、静かに「威風堂々」が流れる。それは一人一人の「威風堂々」、誰のものでもない命そのままに、静かで、輝いている。「威風堂々」はこんなに美しく、力強い曲だったのかと、感動してしまった。

 音楽は世界で一番すばらしいもの、音楽は国境をこえる、音楽は人のこころを結び付ける−−などというよなことを、私はけっしていいたくない。そんな「通り」のいいことばは、単なる「美辞麗句」である。本当に伝えたいのは、誰が聞いても「なるほどね、立派な考えだね」というような、「理性」で納得できるようなことがらではない。伝えようとすればするほど、いいたいこととは違ってしまうような、こころがいらいらと焦ってしまうような、そうしたこころの奥に燃える何かだ。名指しできない何かだ。その何かのために、映画がある。−−それを私はとりあえず「命」と呼んだが、本当は「命」というような単純なことばでは伝えられないものだ。だから最後にこう言いたい。「ぜひ、この映画を見てください。映画を見て、笑って、泣いて、笑って泣いたということをしっかり覚えていてください」と。

パンちゃんの映画批評 目次
フロントページ