『フェイス/オフ』を評価できない理由



 ジョン・ウー監督の『フエイス/オフ』は醍醐味にあふれた作品だ。捜査の核心に迫るために、捜査官(ジョン・トラボルタ)が犯罪者(ニコラス・ケイジ)の顔を自分の顔にはりつけ、犯罪者になりすます。顔をはがされた犯罪者は犯罪者で、そう捜査が秘密におこなわれていることを知り、逆に捜査官の顔を移植して捜査官になりすます。「敵」は「味方」が立場を逆にしながら対決するというのは、傑作なアイディアである。
 二人は他人の顔をつけることで、相手の心理そのものにも触れる。それは犯罪者である男が、捜査官の不良娘のこころの襞に触れ、はじめて「父娘」の交流が生まれるシーンや、捜査官である男が、犯罪者の愛人の子供を命がけで守り、そうすることで初めて二人の間に愛が通い合うシーンといった、とても不思議な場面を創り出す。アクション娯楽映画でありながら、人間描写が非常に深い。
 これは顔を移植し合うというアイディアがもたらした、大変な宝である。(副産物と呼ぶにはあまりにも惜しい人間描写である。)ニコラス・ケイジ、ジョン・トラボルタの演技も、そうした人間の心理の襞を、とても的確に表現している。
 アクションもテンポがいい。場面の切り換えが様々なアクションを生み出し、よくまあ、これだけ撮ったものだと感心する。サービス精神が豊富で、久々のアクション映画の傑作といえるかもしれない。
 しかし、私は、この映画のラストシーンに疑問を持っている。ラストシーンゆえに、この映画を「傑作」と呼ぶ気にはなれない。

 すべての事件が解決し、捜査官はニコラス・ケイジの顔を引き剥が(フェイス・オフ)し、愛する妻と娘のもとへ、ジョン・トラボルタの顔になって戻る。捜査官にしてみれば、ニコラス・ケイジの顔をつけたままでいたくない気持ちはわかる。妻や娘がジョン・トラボルタの顔を歓迎するのもわかる。
 しかし、ジョン・トラボルタが連れてきた幼い少年はどうなのだろうか。彼は、今まで展開されてきた「ストーリー」を理解できただろうか。彼にとって「ジョン・トラボルタ」は「味方」として理解できたのだろうか。
 銃撃戦のさなか、少年を守ってくれたのは「ニコラス・ケイジ」の顔をした捜査官である。「ジョン・トラボルタ」の顔をした男は、少年の母を射殺したのである。そんな少年が、「ジョン・トラボルタ」が本当の捜査官の顔であると簡単に理解し、彼のもとに身を寄せるだろうか。心を開くだろうか。
 この映画の発端、ストーリーの発端が、幼い子供(少年)を射殺された捜査官の恨みであることを思うと、この子供の扱い方は、ひどすぎるというしかない。子供のこころの動きを無視したとんでもない結末だというしかない。
 捜査官は子供を愛していたはずである。愛していたから、その命を奪った犯罪者が許せ否。その犯罪者を捕まえることに夢中になっている。愛するということは、愛する人間のためなら自分はどうなってもいいと覚悟することである。
 もし、犯罪者の愛人から託された子供を愛するなら、その子供の命をずっと守ってやろうと思うのなら、「ニコラス・ケイジ」の顔のままでいるべきだ。そうしないで、「ジョン・トラボルタ」の顔に戻ってしまうのは、実は、その捜査官が愛していたのは、子供ではなく、子供を愛するという行為をまっとうしようとする自分を愛していたのにすぎないのだ。(父が自分を愛しているのではなく、父自身を愛しているにすぎないと直観的に感じたからこそ、娘はぐれたのではなかったか。)−−せっかく、ナルシズムから抜け出すきっかけをつかんだはずの捜査官が、また「ジョン・トラボルタ」の顔をしたナルシズムの父に戻っていくというのでは、興ざめである。

 たかが娯楽アクション映画に、そうした「心理(感情)」の整合性を求める必要はない、という見方があるかもしれない。しかし、そうではない。娯楽アクションだからこそ、感情の整合性が必要なのだ。
 映画を見る時、人は「主人公」と自分を重ねあわせて見る。映画を見おわった時、人は自分が「ヒーロー」(ヒロイン)になった気持ちで映画館を出る。この快感こそが映画の醍醐味でもある。
 この映画は、そうした快感を観客に与えてくれない。
 捜査官が「ニコラス・ケイジ」の顔をして、問題に立ち向かい、困難を乗り越えて行く時、観客は「ニコラス・ケイジ」なのである。銃撃戦のさなか、自分を守ってくれる「ニコラス・ケイジ」を頼りにする少年のように、観客は「ニコラス・ケイジ」の動き一つ一つにはらはらどきどきしている。それが本当は「ジョン・トラボルタ」であり、「ニコラス・ケイジ」は仮の姿である、とは頭のなかでは理解しても、感情はそうではない。感情は「ニコラス・ケイジ」そのものを捜査官と感じている。
 「ニコラス・ケイジ」とともにあったこころを、この映画は、その最後で、まるで存在しなかったかのように引き剥がしてしまう。観客から「ニコラス・ケイジ」の顔を引き剥がしてしまう。映画が終わったあと、観客は「誰」の顔をして町へ踏み出せばいいのか。「ヒーロー」の顔をもたないまま、町へ放り出されるしかない。−−このあまりにも乱暴な暴力を、私は受け入れることができない。この映画は、映画の一番大切な原理を踏みにじっている。

 私は「ニコラス・ケイジ」ではない。「ジョン・トラボルタ」でもない。また「ジームズ・ボンド」でもない。しかし、そんなことを「理解」するために私は映画をみるのではない。私は「ニコラス・ケイジ」である、私は「ジョン・トラボルタ」である、私は「ジェームズ・ボンド」であると「感じる」ために映画を見る。いっときの「夢」に酔うために映画を見る。それを否定する映画は、映画ではない。


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