『グッド・ウィル・ハンティング』について

−−「親友」の定義


 『グッド・ウィル・ハンティング』(監督ガス・ヴァン・サント、脚本ベン・アフレックスとマット・デイモン)に、非常に美しいシーンがある。
 数学、化学に天才的な能力をもった青年がいる(マット・デイモン)。彼は孤児院で育った。里親のもとでは虐待されつづけた。そのために他人に対してこころを開かない。その彼が、一人のセラピスト(ロビン・ウィリアムス)と出会い、やがて心を開き、人を愛することができるようになる。
 その最後の最後の瞬間が美しい。
 マットは、かたくななこころを捨て、かつて自分を愛してくれた女、愛してはいたが自分が傷つく不安(もしかすると嫌われるかもしれないという不安)から「アイ・ラブ・ユー」と言うことができなかった女のもとへ旅立つ。彼は、彼のこころを開いてくれたロビン・ウィリアムスには伝言を残す。ところが、かつて彼と一緒に遊び回っていた友達には何の伝言も残さない。
 何も知らずに、いつもと同じようにマットを仕事に誘いにきた友(ベン・アフレック)は、呼んでも出て来ないマットの家をのぞく。きちんと整頓されている。誰もいない。穴があいたようにぽっかりとした部屋が見えるだけだ。ベンは、マットがこの街を捨てて出ていったことを知る。自分たちを捨てて別の世界へ旅立って行ったことを知る。寂しげな表情が浮かぶ。そして、それがしばらくして笑顔に変わる。これでいいんだ、これでよかったんだ……という風に。そのシーンが非常に美しい。思わず涙が出る。

 ベンはかつてマットに次のようなことを言った。
 「お前は俺たちとは違う。五十になっても俺はこの街にいてレンガ工事のようなことをやっているが、お前が五十になっても俺と同じような仕事をしていたら本気で腹を立てる。お前はここから出て行かなければならない。……俺はいつもお前を仕事に誘いに行く時不安だ。どきどきする。お前がいないんじゃないか、出ていってしまっているんじゃないかと思って。」
 マットは、このベンのことばどおりのことをしただけである。−−それはベンにとって、無条件にうれしいできごとではない。一緒に楽しみをわけあってきた友がいなくなるのは寂しい。何の伝言も残さずに消えてしまうのは寂しい。でも、これでよかったんだ。これでマットは立派な人間になるんだ。これでよかったんだと何度も自分に言い聞かせるような笑顔が、本当に美しい。
 ここには本当の「親友」の姿が、「親友」一人ではなく、「親友」という世界が描かれている。愛そのものが描かれている。

 『グッド・ウィル・ハンティング』のテーマは、真実の自己を発見すること、真実の自分を発見し、それに向かって旅立つことと、「親友」と、二つある。
 「親友」を定義して、セラピストのロビン・ウィリアムスはこんなことを言う。
 「君に親友はいるか。一緒に仕事をし、飲んで遊んでいる友達が親友か。本当の親友とは、こころに刺激を与えてくれ、新しい世界へと導いてくれる人間のことだ。」
 ロビン・ウィリアムスはこのことばどおりのことをし、マットの「親友」になる。それはそれで美しい物語だが、私は、この「感動的な」物語そのものよりも、最後の、一種の友情の裏切り、裏切りを受け入れて笑顔になるベンのあり方に、強くこころを動かされた。
 人のこころに刺激を与え、新しい人間へと旅立たせてくれる人間は、確かに「親友」に違いない。しかし「親友」はそれだけではない。自分が相手に対して何ができるかわからない。しかし、常に相手の可能性を見守り、何だかわからない夢をそっと支えつづけるのも「親友」のあり方だ。その男は可能性を手に入れ、旅立って行く。自分の手の届かない人間になる。もしかするともう二度と会えない。もしかすると自分のことなど忘れてしまうかもしれない。彼は新しい世界へ旅立って行ってしまうのだから。−−それでもなおかつ、その男の可能性を信じ、その男のすべてを愛すること。そこに深い人間性がある。一人の人間が存在する時、彼は一人で存在するのではなく、きっと誰かに支えられている。その「支え」は見えにくい。見えにくいが、存在しないわけではない。そうした存在をくっきりと浮かび上がらせたそのシーンに、本当に感動してしまった。
 この無償の愛、捨てられること、忘れられることこそが、隠れたベン自身の夢を語るような友情の姿−−矛盾したことばでした言えない何か不思議なこころの動き。
 捨てられること、忘れられること−−それがなぜ夢なのか。それは旅立って行くもう一人の男に、自分自身のけっしてかなえられることのない夢を見るからだ。自分はレンガ工事しかできない人間かもしれない。しかし可能性があるなら別の仕事をしたい。そのひそかな夢を友が実現する。そのとき、彼のこころに生きる希望が生まれる。夢は実現するのだ。夢は実現されるためにあるのだ。そのことが実感できる。
 夢を手に入れた人間は忘れてしまうかも知れないが、多くの人は、夢が実現する瞬間をいつも愛している。その夢が自分のものであろうと、他人のものであろうと同じだ。他人の夢を自分の夢と同じように愛する人間がいる。そうした無数の人間が、一人の夢を支えている。いや、一人の人間の存在そのものを支えている。
 この無数の愛があるからこそ、マットとセラピストの「親友」関係が輝くのであり、マットの旅立ちが華やぐのだ。

 どうも、うまく書きたいことが書けない。別の映画で補足しておく。
 『テス』−−美貌のために人生の激流にのみこまれた一人の女を描いた映画。そのなかにこんなシーンがある。
 みんながあこがれる男に愛され、幸せを手に入れたはずのテス。彼女が一人農場に戻ってくる。かつての仲間、美人とは程遠いふとった女がテスに向かって言う。「そんなことじゃだめ。もっとやきもちをやかせて。」−−自分が他人より劣っていることを自覚するのはつらい。つらいけれど、やきもちをやけるということは、また幸せでもある。幸せ−−というのは、ちょっと違うかもしれないが、そこには人間の感情がいきいきと動く一瞬がある。それは人間にとって、とても大切なものだ。(私は、ことばで書こうとすると、どんどん矛盾したことを書いてしまいそうな、こうした不思議なシーンがとても好きだ。やきもちをやくなどというのは立派なことではないし、うれしいことでもない。しかし、やきもちをやきたい、やきもちをやける瞬間が欲しいという気持ち。そこに人間の奥深さがあると思う。)
 一人の人間が存在するとき、そのまわりには様々な感情が動いている。愛が動いている。それは必ずしも全部が全部見えるわけではない。しかし、そのほとんど見えない感情こそが、くっきりと浮き立ってくるすべての個性的な感情の母体である。
 ……また、書きたいことから、ずれてしまった。

  
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