『ポネット』への疑問

 私は子供が嫌いだ。そしてそれ以上に子供を利用する大人が嫌いだ。『ポネット』はそうした大人によって作られた映画である。
 主役は4歳の少女。交通事故で母が死に、少女は生き残った。母の死が納得できず、もう一度会いたいと思いつづけている。その描写が延々とつづく。
 途中の描写はかなりおもしろい。父の仕事の都合で、少女はいとこたちの家に預けられる。そのいことたちが優しくて残酷である。棺のなかに母が喜んでくれそうなものを入れる。何を入れるべきか。「一番大事なものを入れなければならない。」と少女が肌身離さず持っている人形を入れることを勧める。これは母を恋しがっている少女の気持ちを理解すると同時に、それをいじめようとするこころの動きだ。人形を棺に入れることを勧めた少女は、主人公がどんなふうに行動するか見たくて、聞きかじりの知識を利用してそんなことを言ったのだ。
 子供には知っていることと知らないことの区別がない。その区別の自覚がないから、知っていることも知らないことも言ってしまう。言っていいことと言ってはいけないことの区別をせずに、ただ単純に、こう言えば相手がどうするだろうか、という反応を見るだけのために何でも言ってしまう。それは子供にとっては、相手の反応を見て、今言ったことが正しいかどうか判断する方法でもある。
 「死んだ人間が天国から帰ってくることはない」というのも、同じ原理の上に立ったことばである。そう言ったいとこには、それがどういう意味かわかっていない。そのことばが主人公にどんな傷を与えるかなど全く知らない。知らずに傷つけたい。泣かせてみたい。悲しませて、その悲しみを、かわいそうと慰めてみたいのだ。子供には事実が何かわからないから、事実を知るためにも、そうした残酷なことばが必要なのだ。それは子供にとってはとても大切な「遊び」だ。
 こうした子供のいい加減さというか、むちゃくちゃさは、寄宿舎での会話にもっとあらわれている。眠る前に子供たちは様々な話をする。「恋愛」の話をする。それは大人の会話の聞きかじりである。恋愛などしたことがないから、子供には、大人の実際の話はわからない。しかし、ことばだけは知っている。その知っていることを現実につなげたくて、思いつくことを次々にことばにする。「独身」だの「家庭」だの「結婚」だの……。何もわからないから、一つのことばに別のことばをくっつけて、適当な論理をでっちあげる。「donc」「donc」(我思う、ゆえに我あり、ということばの「ゆえに」にあたる)を連発する。この部分がとてもおかしい。こどもはそんなふうにして、遊びながら現実に近づいて行く。遊びながら現実と和解して行く。
 主人公が神様に関心があるとわかると、神様に詳しい少女が出現して、また、いじめる。「テスト(試練)」という名目で主人公に様々なことをする。させる。いじめる少女には、そうしたことが嘘だとわかっている。わかっていて、主人公がどれくらいだまされるか知りたくてそんなことをする。あるいは自分の言っていることが本当に「嘘」なのかどうか知りたくて、主人公を利用している。いじめる側の少女にとっては、そのいじめは、現実というもの、真実というものを知るための、大切な方法なのだ。
 子供の世界をそんなふうに深く描きながら、この映画は、なぜか主人公の少女に対してだけは、非常に甘い。「遊び」から隔離して、純真さだけを描こうとしている。
 主人公はだまされていることに気づかない。自分のいる状況となじむために「遊ぶ」ということを知らない。ただひたすら「天国のママにもう一度会いたい」と願っている。−−そのひたむきで純粋な気持ちを映画は描きたかった、と言えなくもないが、あまりにも無理がある。
 その無理の最たるものが、最後の母親の登場である。母親の「笑顔で生きることが大切である」という説教であり、その説教を納得する主人公の姿である。
 「笑顔で生きることが大切である」というような「哲学」は、突然納得できるものではない。自分で色々な苦労をして、同時に色々な苦労をしている他人を見て、また苦労にもめげずに笑顔で生きている人間を見るという長い長い体験を経て、かろうじて理解できる「哲学」である。それは「遊び」によって現実と和解する子供の方法とはまったく違ったものである。
 こんな「哲学」を突然理解できるとしたら、この主人公は、よほどかわっている。はっきり言えば「馬鹿」である。大人が子供に身につけてもらいたいと思っている「哲学」は何度も何度も繰り返し繰り返し言い聞かせて、それでもわからないのが子供である。大切な「哲学」は言い聞かされて納得できるものではない。さんざん失敗し、苦しみ、落ち込んで、あ、そうだったと気づくものである。「ママが言っていたのは、こういうことだったんだ」と気づくものである。そして、そう気づいた瞬間に、それを教えてくれた人が自分をとても愛してくれていたということにも気づく。そこから懐かしい気持ち、感謝も生まれてくる。人間の成長というものは、それほど時間がかかるものなのだ。
 この映画は、そのはてしない時間、はてしない苦悩というものを完全に省略している。主人公の子供を純真に描き、「かわいいでしょう? 美しいでしょう?」と呼びかける。しかし、その「かわいらしさ、美しさ」は誰にとっての「かわいらしさ、美しさ」なのか。子供の苦悩を理解しようとしない大人が勝手に思い描く「かわいらしさ、美しさ」に過ぎない。
 こんな子供を描いて平気なのは、子供に自立する力を身につけてもらいたいと思っている大人ではない。自分の都合のいいように「素直に」「美しいく」育ってほしいと願っている大人である。そうした大人の理想は、聞き分けがよく、いたずらも、いじめもしない、ようするに手のかからない子供だ。ふぬけの子供だ。
 こんな役を演じさせられた少女が、私には不憫でしようがない。映画で教えられたことをきれいさっぱり忘れ、不良になって欲しいと願わずにはいられない。聞き分けのわるい、わがままな女になって欲しいと願わずにはいられない。人間は不良時代をくぐりぬけなければ善良の意味などわからないものなのだから。

  
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