『シン・レッド・ライン』の映像は美しいか


 『シン・レッド・ライン』の映像は美しいか−−確かに美しいシーンもある。
 冒頭の沼(水辺)。細かい水草が浮いた沼へワニが進んで行く。その緑のひっそりとした色。その奥からあらわれる濁った水の静かさ。元へ戻ろうとする水草の動き。水面を再び覆い尽くそうと動く水草。これは美しい。ラストシーン。雨にけぶったような浜辺。流れ着いた(?)ヤシの実。そこから茎が伸び、緑が芽吹いている。これも美しい。−−この二つは、ともに自然の命の強さを描いたものであるかもしれない。
 しかし、私は感心しなかった。絵はがきを見るような、冷めた気持ちになってしまった。なぜか。その風景を見ている人間の視線(兵士の視線)というものを感じることができなかったからだ。それらは単独に存在する風景にしかすぎないからだ。
 この映画はガダルカナルの戦争を描いている。そこには無数の、無名の兵士が出てくる。彼らは、おそらく初めてガダルカナルの自然を見たと思う。それまで見たことのない風景を見ているのだと思う。こんなことろで戦うのか、見たこともない日本人を相手に、住んだこともないジャングルで戦うのか、という思いが伝わって来ないからだ。
 感情がからみあっていない風景が美しくあるはずがない。感情と無関係に映し出された風景が美しいはずがない。
 その典型が木漏れ日のシーンだ。「210高地」奪取を目指して突撃する兵士たち。日本兵の攻撃にあって、死んで行く兵士。その兵士が最後に見る木漏れ日−−それは木漏れ日を映した映像としては確かに美しい。しかし、その兵士は密林で死んで行くのか? そうではない。彼らは密林を進んでいたのではなく、草が茂った山の斜面にいた。風が吹くと一面の草が葉裏の白っぽい色を見せて風の動きをそのままなぞるような、剥き出しの草原にいた。そこには木漏れ日を作り出すような大きな木はなかった。それなのに、突然深い深い密林のなかの木漏れ日が映し出される。−−この映画は、兵士たちとは無関係に、ただ「美しい映像」、「絵はがきのような映像」をつないでいる。
 虫食いだらけの木の葉の逆光のシーン、森に潜む華麗な色の野鳥、トカゲ、コウモリ……それらは「観光客」の視線で見た「美しさ」でとらえられている。兵士と無関係である。こうしたものを、私は美しい映像とは呼びたくない。
 美しいのは、たとえば『プライベート・ライアン』の最初の戦闘シーンだ。上陸しようとした瞬間ヘルメットをぶち抜かれ、死んで行く兵士。海の中まで進んで来る銃弾−−その銃弾がつくりだす気泡の真っ直ぐな形。弾に当たり、噴き出す血の色。海の中に広がって行く形。吹き飛んだ自分の腕を探して、拾い上げふらふら歩く兵士−−それらは悲惨である。悲惨であるが、一人一人の兵士と深く結びついている。一人一人の命、私たち人間すべてにつながる命と深く結びついている。そのために決して忘れることができない。名前も知らない。名前があるのかどうかもわからない兵士の一人一人の死が、しかし、その映像としっかり結びついて記憶される。このからみつきゆえに、私はそれを美しいと呼ぶしかない。
 『シン・レッド・ライン』には、残念なことにそうした美しさがない。いや、例外として、オジギソウとブランコのシーンがある。はいつくばった兵士の目の前にあるオジギソウ。それにそっと触れてみる。葉っぱがその指先から閉じて行くときの、緑の変化の美しさはすばらしい。ブランコのエロチックなゆらぎも美しい。しかし、それが持続しない。断片が断片のまま、ただ散らばっていて、持続性がない。持続性がないために、それが本当に意図して撮った映像なのか、たまたま美しく撮れただけの映像なのか判断できない。それを監督の意図として受け取ることができない。
 この持続性の欠如はそのまま映画を作っている監督の精神の持続性のなさ、精神の貧弱さを表しているように、私には感じられる。
 この映画には膨大なモノローグが出てくる。神の存在を問うような問い掛けが出てくる。おそらくそのモノローグに監督の「主張」が込められているのだろうが、そこには強烈な命の輝きがない。個性がない。何人もの兵士が似たようなモノローグを展開する。そこには個性がない。個性がないゆえに、何か真実味がない。そして、そのモノローグは、何としても真実を探し出すのだというような迫力を欠いている。あきらめきったような虚無感が漂っている。
 この貧弱な精神をごまかすために、「美しい」映像が選択されているような気がしてならない。自然の美しい映像−−美しさを感じることのできる繊細な精神が戦争によって破壊されたとでも言いたいのだろうか。抒情的すぎる。あまりにも抒情的すぎて、抒情になりきれず、絵はがきになってしまっている。

  
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