ファイト・クラブ−−「弁証法」とは何か




この映画のメインテーマは、「痛み」をとおしてしか自己存在を確認できない若者の存在である。そこには若者のこころの叫びがあるといえばいえる。
問題はそれがどのように表現され、どのように解決されようとしているかである。
生の充実感を感じることのできないエドワート・ノートンが演じる青年は不眠症である。彼は、自分の苦悩をさらけ出して、こころの苦しみを解放する集いを渡り歩く。苦悩、こころの叫びが他人に共有されることで安らぎを獲得する人々----その人々の集いにまぎれこんで、その苦悩を自分も感じていると自分自身に嘘をつく。そのとき、彼にはふいに安らぎがやって来る。
ここまでは、とても面白い。そのまま、そうした集いの日常的な会話の中で自己を模索する映画になれば、それは悲惨でありながら、ユニークなユーモアをたたえる魅力的な映画になったと思う。
だが、この映画は、少しずつずれ始める。
彼はある日、ブラット・ピットが演じる若者と出会う。これは実在の人間ではなく、ノートンのこころが作り出した幻想である。ノートンはピットと殴り合うことで、肉体の痛みを感じ、その痛みによって自己の存在を非常に強く感じる。自己確認の快感を覚える。
そこから「ファイト・クラブ」(けんかクラブ?)という秘密の会が結成される。やはり自己の存在をうまく感じることのできない若者があつまり、殴り合うことになる。この会合では、ひたすら痛みへ向かって暴走するピットとためらうノートンが巧みに描かれ、こころのを葛藤を表現している。
この会合の異様なのは、それがたとえばボクシングのように、相手を倒すこと、相手より強くなることを目的としているのではなく、ひたすら殴られること、殴られることで痛みを感じ、自己を確認するということを目指している点である。そのことは、ピットが全員に出す「宿題」によくあらわれている。ピットは、全員に、見知らぬ人間とけんかをしろ、ただし、相手を殴るのではなく、殴られること。
これはやってみると難しい。暴力否定の思想が社会に行き渡り、人はなかなか殴りかかってはこない。乱暴な行為を働きかけられいったんは怒りもするが、その怒りに向けて若者が立ちはだかると、怒りをひっこめ「ごめん」と身を引いてしまう者さえ出てくる。
どうするか。若者たちはますます暴走する。テロ集団となってゆく。社会破壊が目的ではなく、社会に制裁されることを目指しているのである。
もちろん映画であるから、この映画はただ暴走する若者を描くのではなく、その暴走から引き返す若者の姿を描く。
ノートンは、暴走して行く集団を見つめながら、だんだんそれについて行けなくなっていく自分を感じる。自分で作り出した架空の存在のピットの暴走をなんとかしなければならないと思い始める。
そして最後に、自分自身へ向けて銃を引く。今まで感じたことのなかった痛み、死の恐怖に通じる痛みを体験することで、痛みを求めていた自分自身から自由になる。
この過程を「弁証法」を援用して説明する見方がある。何もする気力のない人間・ノートンという人間がいる。これをテーゼ、と考える。これに対して、彼とは対極的な人間・ピット、暴力の痛みによって自己を確認するという異様な人間があらわれる。アンチ・テーゼである。この二人は、対立を経て、昇華される。暴力・痛みによって自己確認をすることを目指したピットを殺す(自分の中のもう一人の自己を殺す)ことで、新しい人間に生まれ変わる。
この「弁証法」の解説は、とてもわかりやすく、無邪気である。そして、本当は「弁証法」でもなんでもない。
ここでは肝心なことが描かれていない。暴力は社会に向けられ、暴走した。その責任がいっさい、ここでは問われていない。ノートンとヘレナ・ボトム・カーターがラブシーンを演じる背景で、ビルが爆発し、崩れて行くが、それをまるでピットの崩壊のように描き、美しく表現する時、暴力とはいったい何かということが、完全に忘れ去られている。
社会とは関係なく、単に、一人の人間が生の充実を求め、ある時暴走し、その暴走にやがて気づいて、その暴走を否定し、穏やかな愛を手に入れるストーリーへと物語を転化することで、すべてをごまかしているのである。
もし、本当に若者の再生(弁証法によって生まれ変わった人間)を描くなら、恋する二人の背後で始まったテロとどう向き合うのか、そのテロに対して、どう責任をとるのかをきちんと描かなくてはいけない。あれはピットが演じたもう一人の人間の行為が引き起こした騒動であり、ノートンの演じる若者とは関係ない、と切り離してしまってはいけないのである。
「弁証法」は完結したのではなく、今、始まるべきなのである。
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この映画の「弁証法」と対比する形で、『ジャンヌ・ダルク』の「弁証法」を「甘い」と否定する意見も私は読んだが、たぶん、その人は、ノートンは生き残ったがジャンヌは火刑に処せられ生き残れなかったから 「弁証法」が完結しなかった、完結させることができなかった、とでも思ったのかもしれない。
ジャンヌは、この映画では確かに良心との葛藤をうまく乗り越えられない。乗り越えられないまま、苦悩して死んで行く。
しかし、それから数百年後、ジャンヌではなく、カトリック教会によって、つまり社会によって、彼女は「止揚」され、「聖人」へと「昇華」する。社会のなかで、彼女自身の良心との葛藤の「弁証法」は完結するのである。
単なる個人の問題ではなく、一人の人間の問題が社会とかかわりを持ったなら、その「弁証法」は社会のなかに還元され、社会の中で「止揚」され、そこで完結するまでを描かなければならないのである。
だが、社会の中で「止揚」される「弁証法」を『ジャンヌ・ダルク』も描いていないではないか。ジャンヌが死ぬところで映画は終わっているではないか、という意見があるかもしれない。
しかし、そうではない。ジャンヌの生きたかの場合は、映画で描かなくても、歴史としてすでに人々に共有されている。その弁証法は歴史になってしまっているから、それは描く必要がないのだ。
ところが『ファイト・クラブ』の場合は、ノートンの生き方は、社会の中で歴史として共有されていない。
そんなものを「弁証法」などと言ってはいけないのである。
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『ファイト・クラブ』で見るべきものは、見て感じ取るべきものは、「弁証法」などという「辞書」のなかの説明と映画の構造があっているかどうかではない。「弁証法」などということばにとらわれ、映画をわかったような気分になっている人間は、この映画の大切な部分を見落としている。
この映画が画期的なのは、自分の肉体を傷つけ、そうすることで自己存在を確認するしかできない人間が確かに存在するという事実である。それに目を背けず、しっかり見つめ、何かを考えようとした人間(監督や役者)がいるということである。
彼らの試みは破綻している。その破綻を「弁証法」といって喜んで受け入れているファンもいる。
しかし、本当にこの映画を愛するなら、そうした甘い甘いラブストーリーの完結を装った「弁証法」をきっぱり拒否し、実際に存在するであろう自分自身を傷つけて自己の存在を確認する人間に出会った時、自分はどうするかを考えることが必要なのだ。
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私はこの映画の結末のありようを絶対に受け入れることはできない。そして、その結末に対して怒る、と言う形でこの映画を拒否する。そしてそこから、自分を傷つけることでしか自己確認をできない若者というものについて考え始める。これが、私の、この映画に対する「弁証法」的な態度だ。


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