ある貴婦人の肖像

 アメリカからイギリスへやって来た女。結婚よりも広い世界を知りたいと思っている。その女を追いかけて、アメリカから男がやって来る。結婚を申し込む。女は、その気になれない。
 別れ際に、男が女のほほにそっと触れる。
 そこから始まるシーンが素晴らしい。男を追い返したあと、女は自分の指でほほをなぞる。男の指の感触を思い出すように。部屋の中をさまよい、ベッドに近づく。ベッドの上の方に、房がある。カーテン(緞帳)の下の方にあるような、糸がねじれた房。それが額に触れる。その感触にうながされるように、女は額を左右に振る。房が引きだす接触の感じ、触れることで内部から引きだされる不思議な喜び。
 女は、男の指がほほだけではなく、体全体をなぞっていく夢をみる。それもアメリカから追いかけてきた男だけではなく、イギリス人で彼女に求婚した男、彼女が身を寄せている家の長男、その三人が、彼女の体に触れている幻想に酔う。
 セックスを体験したことのない女の幻想−−といってしまうと何でもないようなものだが、ベッドの上の方にある房の感触に酔いはじめるシーンに、私はびっくりしてしまった。あ、こんなところから、官能が目覚めるのか。
 『ピアノ・レッスン』の、破れた靴下の穴から触れてくる男の指に、どきりとしながら拒否することなく女がピアノを弾くシーンや、いくつかのベッドシーンにも驚いたが、ここでも、本当に驚いてしまった。
 それは見たことも、想像したこともない光景だった。たぶん女性の監督以外には描けない世界だと思う。ジェーン・カンピオンが女性監督だったからこそ、描けた世界だと思う。トリュフォーやベルイマンも女性を描くのが巧みだったが、もっと心理的なものだった。肉体そのものの深い官能と苦悩とは違ったものだった。

 女は、一方で官能の深みに誘われていることを自覚し、一方で、結婚して家庭に閉じ込められてしまうのではなく、広い世界を知りたいと思っている。女にも違う生き方ができるのではないかと考えている。
 その、清純といっていいのか何といっていいのかわからないが、そうした精神的なものと、官能的なものに引き裂かれ、苦しむ女を、ニコール・キッドマンは魅力的に演じていた。彼女がこうした演技をするとは、思いもしなかったので、その点にも驚いた。
 そうした女に、突然遺産が転がり込む。女はその金で、イギリスを出て、ヨーロッパを旅する。イタリアで一人の男に会う。
 女は、簡単にいえば、だまされる。男は女の遺産が目当てだ。芸術家らしいのだが、どれほどのものであるかははっきりしない。しかし、女は、男が手ほどきする芸術の世界(知の世界)と肉体の世界(官能の世界)の世界に引きずり込まれていく。男の裏切りや、男を引き合わせた女の裏切りも知る。金目当てだったことを知る。
 肉体の喜びがどこかにあることをを感じながら、そうではなく、違った世界を夢見ていた少女時代の輝きがしだいに消えていく。
 なんで、こんな男と一緒にいるのか。なぜこんな男を捨ててしまわないのか。そんなふうにいうことは簡単だ。
 だが、そんなふうに簡単に振り切れない。官能のために。
 こう書いてしまうと、なんだか女が色情狂のような印象を与えてしまって、どうもよくないのだが、どうしようもないものがあるのだ。別に毎日セックスをするわけではない。(そんなふうに描かれているわけではない。)ただ、男によって引きだされた何か、女が知らなかった女のなかにある可能性(何を喜びと感じるか、その感覚の広がりの可能性−−そこには、一種の詐欺のようにして忍び込んだ「芸術」の世界、知の世界も重なっているに違いない)のようなものと男が結びついていて、女には、男を捨ててしまうことができない。
 このあいまいな感情も、ニコール・キッドマンは、不思議なリアリティーで演じていた。再現していた。自分自身へのあきらめと、そうではないと信じようとする感情(自分自身のなかにあるもっと別の力を信じようとするこころ)の葛藤、その葛藤に疲労していく感じを、鮮やかに再現していた。

 女は、結局、男をおいてイギリスへ帰る。女が身を寄せていた家の男が危篤で、それを見舞いに帰る形でイタリアを去る。そして、イギリスで、その瀕死の男が、実は彼女に遺産が転がり込むようにした人間だったことを知る。本来は彼が受け継ぐべき遺産を、男は女に譲ったのだった。
 女は、そうして官能とは別の愛の形を知る。映画はそこで終わる。女がそれからどうしたかは描いていない。
 映画は、女の愛の結末、愛についてどう考えたかを描きたかったのではなく、「愛」というとき、そのまわりに存在するものに、女がどんなふうに突き動かされているかを描きたかったのだと思う。女そのものを描きたかったのだと思う。
 その女の姿は、−−はっきりいって、私は打ちのめされてしまった。『ピアノ・レッスン』にも驚いたが、今度も驚いてしまった。裸のシーンもないのに、ニコール・キッドマンが官能に引き込まれながら苦悩を深めていくにしたがって、まるでセックスをしているような感じがして、体がほてってくるのを覚えた。
 それはポルノ映画、という意味ではない。肉体の興奮をあおる映画というののではない。感情と精神が深いところで揺さぶられる感じがするのだ。
 官能の喜びと苦悩の、どうしても切り離すことのできないものに揺らぐ姿が、非常に美しく見える。それを非常に美しく描くことで、女そのものを非常に美しく描いた映画である。
 映画の後半を見るまで、私は、ニコール・キッドマンが、こんなに美しい俳優だとは気がつかなかった。


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