85歳の巨匠

 マノエル・デ・オリヴェイラという映画監督がいる。85歳。ポルトガル人。すでに多数の名作がある。現在も年に一本の割りで映画を撮っている。「世界最大の作家」(蓮實重彦)という評もある。しかし日本では映画祭などでしか上映されていない。そのオリヴェイラの劇場初公開『アブラハム渓谷』を見た(東京・銀座シャンテ・シネ2)。
 息をのむ素晴らしさだ。『ボヴァリー夫人』の現代版と言えるが、美貌の主人公と周囲の描き方が新しい。エマが愛を求め、欲望に生きるというより、その精神の強さに男がかってに揺れ動くという感じだ。その揺れが非常に的確に映像化されている。不動のカメラが、人間の感情が動く一瞬を鮮やかに暴く。その瞬間は、はりつめた映像が内部から炸裂する印象がある。情念が精神に、精神が情念に変化するドラマが、残酷であり、同時に格調高い。映画を見ていることを忘れ、現実に登場人物と向き合っている気持ちになる。大傑作だ。
 人間の能力を年齢をもとに判断するのは失礼なことだが、80歳を過ぎても、豊かで美しく充実した映像をつくりあげる精力には驚いた。映画制作は共同作業であり、体力が衰えると映像にも乱れが出やすい。ところが『アブラハム渓谷』には乱れがない。「巨匠」とはこうした監督のことだと思う。

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