イル・ポスティーノ

 映画『イル・ポスティーノ』(マイケル・ラドフォード監督、ミラマックス)を観た。イタリアの孤島に亡命したチリの詩人パブロ・ネルーダと郵便配達夫(イル・ポスティーノ)の交流を描いた作品だ。郵便配達夫をマッシモ・トロイージ、ネルーダをフィリップ・ノワレが演じている。
 ラスト近くのシーンが美しい。
 詩人が島を去った後、置いていったテープレコーダーで、島の「音」を録音する。かつて詩人に「島で一番美しいものは?」と聞かれ、「ベアトリーチェ」と恋する女の名前を告げた無学な男が、新しい「美」を見つけ、詩人に知らせるために「島」の「音」を録音する。ことばでは語ることができないけれど、美しいと感じるものを伝えたい一心で、男は様々な「音」を録音する。
 浜辺を洗うさざ波。岩にぶつかる大きな波。岩壁に拒まれる風。茂みに隠れる風。あるいは教会の鐘。
 そうした音に混じって、「音」以外のものも録音される。つまり、見ているものを、ことばで描写する。男の父が網を繕っている。その様子を「わが父の悲しい網」ということばで描写し、そのことばを録音する。かつて詩人に詩を見せたとき、「網」に「形容詞」がいると言われ「悲しい網」と直した。そのことを思い出し、その思い出のために、男は「わが父の悲しい網」と録音したのかもしれない。
 そして、「島の星空」。
 涙がこぼれそうになった。波や風、鐘に「音」はあっても、「星空」に「音」などない。そこにあるのは「沈黙」だ。どんなことばによっても描写されていない「沈黙」だ。何にもまみれていない純粋な「存在」そのものだ。──しかし、その「沈黙」は、本当は「音」であふれている。ことばにならないことばであふれている。美しいと感じ、美しいと伝えたい気持ちがいっぱいなのに伝えることができない。その、切なさ、苦しさ。そして、そんな苦悩をはるかに超えて、純粋に輝く星空──伝えたくても伝えることのできない無数のことば。ことばがひしめきあって、整然としたかたちにできない──それが、この場合の「沈黙」だ。
 「すばらしいな。今まで気づかなかった。島の星空」と、男は録音する。「すばらしい」も「今まで気づかなかった」も、詩のことばにはなり得ない、弱いことばかもしれない。魅力を欠いたことばかもしれない。しかし、そう告げることしかできない。無力さを感じながら、告げずにはいられない。
 これこそが詩なのだ。
 「星空」から拒まれていることば。「星空」を描写するには貧弱すぎることば。しかし、男には、そのことが自覚されている。その自覚が美しい。
 男は詩を発見したのだ。詩が、こころのなかで形になろうとして形になれずに苦しむことばの震えだと実感したのだ。

 美しいシーンに誘われ、私は、いくつものシーンを思い出す。
 男は詩が好きだったのではない。映画で偶然、世界的な詩人が自分の住む島に逃亡してくることを知った。愛の詩で有名なネルーダ。彼は女に非常にもてる。「ふーん、詩を書けば女にもてるのか。」そんな気持ちでいるとき、詩人へ郵便を届けるだけのための郵便配達夫を募集していることを知る。詩人と知り合いになれば女に自慢できるかもしれない。女にもてるようになるかもしれない。
 だが、差し出した詩集に、詩人は男の名前を書いてくれない。「こころから、パブロ・ネルーダ」とだけ書く。これでは詩人と知り合いだという証拠になりはしない。無念な気持ちを抱きながら、詩とはどんなものだろう、と男は詩集を繰る。ことばを追う。
仕立て屋と映画館に私は入る、
青ざめて、無感動のまま
フェルトの白鳥に似てる
美容師達のにおいに私は涙にむせぶ
人間であることに飽きた

(「イル・ポスティーノ」のパンフレットから
字幕翻訳吉村信次郎、シナリオ採録斎藤敦子
東宝出版・商品事業室発行)

 男は二つのことばにこころを奪われる。一つは「人間であることに飽きた」──それは男が何度か感じてきたことだった。同じこころがあることを知る。自分が感じていながらことばにできなかったこころを、男は、詩人のことばのなかに見つけ出す。言いたいことは、こういうことだったんだと知る。
 もう一つは、全く逆のことばだ。「美容師達のにおいに私は涙にむせぶ」。これは男にはどういう意味なのかわからない。だから「どういう意味なのか。」と詩人に訊ねる。詩人は「別のことばでは説明できない。詩は説明したら陳腐になる。詩があらわしている感情を体験することが大切だ。」と答える。
 このエピソードには、詩のすべてが語られている。詩は感情を語る。そして、そのことばは説明すれば説明するほど、感情から遠くなる。詩は説明では理解できないものである。詩にあらわされた感情を体験したものだけが、詩を理解することができる。
 これは、一見、文学の否定ともとられかねない「詩」の定義だ。もし、詩にあらわされた感情を体験したことがなければ詩を理解できないのだとしたら、詩を読むのにどんな意味があるだろう。詩にあらわされている感情は、自分が知っているもの、体験ずみのものである。そこには新しい感情はない。──だが、そうではない。私たちは色々な感情を体験する。体験はするが、すべてをことばにできるわけではない。感じながら、ことばにできない感情の方が多い。「人間であることに飽きた」という感情のように。
 だからこそ、詩が、あるいは文学が必要なのだ。詩や文学は、誰もが体験しながら、まだことばになっていない感情を書いたものだ。あるいは、誰もが気づいていながら、ことばになっていない精神の運動を書きとめたものだ。
 ことばに触れながら、人は自分の感情を再発見する。感じていたのは、こういうことだったのだ、と。

 他人のことばを通して自分の感情を再発見することが、文学を、あるいは詩を読むことだ。
 そうであるからこそ、男は詩人の詩を盗む。詩人の詩を恋する女にささげる。自分が書いた詩であるかのように装い……。このとき、男は詩を盗んでいるのではなく、詩を通して自分のこころを発見している。そしてまた、詩を読んだ女は、それが詩人の詩であると理解するのではなく、男が書いたものだと信じる。詩のことばに、詩人のこころではなく、男のこころそのものを読む。同時に、自分の美しさを再発見する。女が大事に隠している詩を読んだ伯母も、司祭も、そのことばを、男が書いたものだと信じる。そして、その描写も、詩人の恋人を描写したものではなく、男が恋人を描写したものだと信じ込む。誰もが皆、詩を通して「ベアトリーチェ」と男のこころを確認する。
 詩人のことばが、男の感情をつくり、女の感情をつくり、女そのものをもつくってしまう。世界そのものをつくってしまう。
 男に対し、詩とは何かを教えてきた詩人は、「盗作」を批判する。ところが、男は反論する。「詩は書いた人間のものではない。それを必要とする人間のものだ。」
 詩人は、まいってしまう。
 詩は確かに読まれ、誰かのこころを耕し、誰かのこころに定着しないことには詩にはならない。詩を書く人間なら誰でも、自分の詩が、人のこころに定着し、その人とともに生きることを夢見る。男が詩人の詩を「盗作」し、恋人にささげたのは、ネルーダの詩が、まぎれもなく詩であることの証明である。詩でなければ、男は「盗作」などしない。
 映画のなかで、ネルーダは、うまく反論できずにいるが、これは重要なテーマだ。「詩」と「詩人」の問題を考えるとき、大切な分岐点になる事柄だ。
 詩は共有される。しかし、詩人は共有されない。詩人は、あくまで「個人」なのだ。独立し、自分自身の力でことばをつかみとり、感情に形を与えていくからこそ詩人であり、そうした仕事は、一人一人でするしかないものだ。

 男は、このことを知るまでに時間を必要とした。
 男と女は、詩人の仲介もあり、結婚する。結婚式の日、詩人に、国外追放を解くという知らせが届く。詩人はチリへ帰ってしまう。
 長い間、男は詩人からの手紙を待つ。小さな島で知り合いになった。詩を教えてくれた。結婚の立会人もしてくれた。「親友」と呼んでもいい仲だ。新聞のニュースを読みながら、男は、考える。モスクワにいるらしい。パリに来ているらしい。帰りに島に立ち寄らないだろうか。しかし、ネルーダは島へ尋ねてこない。はがき一枚来ない。インタビューでイタリアの思い出は語っても、島の人々のこと、男のことについては何も語らない。なんて冷たいんだ。
 そして、ある日、手紙が突然届く。しかし、それはネルーダ本人からのものではなく、秘書からだ。島の別荘にある荷物を送って欲しいとだけ書いてある。男は失望する。
 男は、自分が「詩人」ではなく、「郵便配達夫」としてしかネルーダの記憶にないことを知る。「詩人」として無価値の人間だから、ネルーダが覚えていないのは当然だ。詩人ではない男を覚えていると考える方が間違っている。恨むのではなく、詩人の器ではない人間なのに、詩について教えてくれたことをこそ感謝すべきだ。対等の人間として付き合ってくれたことを感謝すべきだ。
 男はネルーダから頼まれた荷物を取りに別荘へ行く。テープレコーダに気づく。動かすと、「島で美しいものは。」と聞かれ「ベアトリーチェ。」と答えた男の声が聞こえる。詩人と感激して「最高だ。」と叫んでいる。そのやりとりを聞きながら、男は考え込む。「これが詩なのかもしれない。」
 確かに詩だ。「島で美しいものは、ベアトリーチェ。」──これは、男にしか言えないことばだ。男自身のことばだ。恋し、恋した女のことしか見えなくなった男の声だ。たった一つの感情、しかも、誰もが経験したことのある感情──それがいっぱいつまったことば。だからこそ、ネルーダは「最高だ。」と叫んだ。
 男は自分の声を発見した。そして、その声で、再び「島の美しさ」を語りはじめようとする。詩人になろうとする。それが最初に紹介した「島の音」集めだ。さざ波。怒濤。巨岩の壁にぶつかる風。茂みを揺する風──それらを具体的にことばにする方法を男は、知らない。しかし自分が美しいと思っているものを確認し、意識することは、同時にそれを「再発見」すること、それを「定着」させようと努力することなのだ。このとき、具体的なことばは発せられていないが、男のこころは、ことばにならないことばで耕されつづけている。詩が、男のこころのなかで生まれつつある。
 こころがこころを耕しはじめたからこそ、男は、音のないものまで録音しはじめる。「わが父の悲しみの網」。そして「島の星空」。このとき、男は自分のこころの声を聞いている。そして、その声は、スクリーンを通して、観客にもはっきり聞こえる。切なさと苦しみと絶望と喜びがいりまじり、こんぜんと溶け合い、調和している不思議な音楽となって……。(スクリーンは、その音楽を、ゆるぎのない美しい映像で伝えている。)
 やがて、男は、本当に詩人になる。共産党大会で朗読する詩を書く。ネルーダにささげたものだ。詩人が男のこころに残していってくれたものを告げるはずの詩だ。その詩は、しかし、実際に朗読されることはない。共産党を弾圧しようとする軍との対立のなかで、男は不慮の死をとげてしまうからだ。
 数年後。ネルーダが島にやって来る。パブリートという名の男の子に会う。ベアトリーチェに会う。男が死んだことを知る。いきさつを聞いて、「郵便配達夫」から「詩人」に生まれ変わって、それから死んだのだと知る。

 詩とは何か。詩人とはどのようにして誕生するのか──それを静かな口調で語る、美しい映画だった。

批評のページ 目次
フロントページ