アブラハム渓谷

 映画が終わり、クレジットが流れた瞬間、私は頭を殴られたような衝撃を受けた。主人公の「エマ」を二人の女性が演じていたことを、クレジットを見て初めて知った。一人だと信じ込んでいた。
 十四歳の少女の役と、成人してからのエマ──それは言われてみれば確かに違った二人の女性である。
 十四歳の少女──それはナレーションによって美しい少女として紹介された。しかし私には美しくは感じられなかった。何か剛直な精神が前面に出ていて、それが強すぎる感じがした。笑顔には残酷なところさえあるように思った。醜いとさえ思った。
 その少女が大人になった瞬間、あ、ずいぶん印象が違ってきた、と思った。美しくなった、と思った。それが何のせいなのかわからなかった。何年間かの時間の流れ──そのなかで少女が成長し、美しくなる──そうしたことを、映画は何の説明もなしにやっているのだと思った。役者が、そんなふうに演じているのだと思った。役者がかわったとは思わなかった。(実際、二人の役者の変化は、リュドミラ・サベリーエワが『戦争と平和』のなかで変化した変化より小さく感じられる。リュドミラ・サベリーエワの場合、同じ人間なのに、別の役者だと思ってしまった。)
 演技がつづいていくと、一人の役者が二つの表情を演じわけたのだという印象がますます強くなる。
 成人し、結婚し、奔放な性を生き始めるエマは、他の登場人物が老いていくにもかかわらず、どんどん美しく若くなっていく。その変化のなかで、少女から成人への飛躍が消えていってしまう感じもする。剛直で醜い印象を呼び起こした精神の強さが、命の輝きを支える力になっているに違いないと感じ始める。
 精神の強さ、輝き──それが二人の役者によって完全に共有されているために二人の役者という印象が完全に消えてしまったのだろう。そう思った。

 映像は、そうした精神の強さ、輝きを非常にくっきりと描き出していた。
 この映画の映像的特徴は、カメラの切り返しが極端に少ないことである。アメリカ映画では一つのシーンが様々な角度からとらえられる。視点が次々に動く。しかしオリヴェイラの映画では、カメラがどっしりと固定され、動かない。
 たぶんそのためだと思うのだが、役者の一瞬の表情の変化が、非常に克明になる。奇妙な言い方になってしまうが、その動きのなかに「時間」が見えてくる。演技ではなく、役者自身の存在感が、手触りとして感じられ、役というより、役者自身の人生を見ているような錯覚に陥る。エマの不倫をめぐる感情と精神のからみあい、ときほぐすことのできない固まりが、指の動き、眉の動き、瞳の色の変化のなかに、爆発的に噴出してくる。一瞬の表情の変化の奥に、どうすることもできない長い長い「時間」があるのを感じてしまう。ことばにして語ることのできない「もやもや」した「時間」があったこと、登場人物によって共有されてきたことが、一瞬の変化のなかにあらわれる。
 そして、この一瞬の変化は、実はことばでは説明しにくい。しかし恋愛をしたことのある人間なら誰でも感じることのできる意味を深く抱えている。私たちはことばにできない感情をこころにたくさん抱えている。どうあつかっていいのかわからない欲望や悲しみ、残酷さをこころにたくさん抱えている。それが一瞬の変化のなかに、くっきりと浮かび上がる。その変化を、より明確にするためにカメラが固定されているのだと思える。くっきりと浮かび上がってくる様々な精神や感情が、そのときスクリーンを満たす。スクリーンをあふれ、観客席になだれてくるのがわかる。その充満と、あふれ、なだれてくるもののためにも、カメラは固定される必要があったのだとわかる。
 こうした映像を見ていると、アメリカ映画のクローズアップや切り返しの多い刺戟的な映像とは逆の意味で、視覚を非常に覚醒させられる。目の奥、というより意識の奥に隠しておいた精神や感情の動きを、脳の奥からひっぱりだしてきて突きつけられたような気持ちになる。翻弄される。
 しかも、それは非常にみずみずしい。豊かで美しい。人間の表情だけではなく、谷間の表情、川の流れ、ブドウの段々畑、農夫たち──それらがスクリーンを見ているということを忘れさせるほど充実している。張り詰めている。
 ある意味では平凡とさえいえるほど落ち着きはらっているが、その平凡が、非常に美しい。考えてみれば不倫も恋愛にともなう欲望も悲しみも平凡なことである。誰もが体験していることである。平凡であるからこそ、それをたった一つの事件であるかのように映像化して見せるオリヴェイラ監督の魔術に驚くのでもある。

 カメラが固定されている、と書いたが、一つとても不思議なシーンがある。ラスト近くのオレンジ畑。エマが枝をくぐりながら川の方へ行くシーン。まるで宙に浮いているかのようにすーっと滑るように動いていく。(蓮實重彦とオリヴェイラ監督の対談によると、このシーンではエマは歩いていない。台の上に乗り、その前にカメラを固定し、レールの上を移動したそうである。)
 このシーンを見た瞬間、あ、エマは死ぬのだな、とわかる。地上を離れ、ふーっと浮き上がる印象があるからだ。同時に、それまでの様々な時間が、その一瞬に統合されていくような気持ちになる。美しい人生を見た──という気持ちになる。エマは、レールの上を移動していくような、まっすぐな人生を見ていたのだ、まっすぐな人生を生きてきたのだ、ということがわかる。
 そのまっすぐさを支える力を、少女と大人の二人の女優が共有した。二人だけではなく、共演者全員が共有し、また私も共有しえたと思った。エマを二人の女優が演じたと知ったときから、その思いがますます強くなった。

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