オリーブの林をぬけて

 映画を作る映画である。舞台は大地震にみまわれた小さな村。若い男と女が、大地震の翌日結婚した夫婦を演じる。
 繰りかえされるNGのシーンが非常におもしろい。
 彼らは役者ではなく、実際に地震にみまわれた村に住む素人である。素人であるから、撮影はスムーズにはいかない。何度もNGが繰りかえされる。演技に現実が入り込んでしまう。(といっても、このNGそのものが、映画という虚構なのだが……。)

 たとえば男は、地震で親類の六十五人が死んだ、という台詞を「二十五人」と言ってしまう。実際に死んだ親類が二十五人だから、つい、その数字がでてしまうのだ。そういう役を男がやっているのであり、本当に彼の親類が二十五人死んだかどうかはわからないのだが、繰りかえされるNGによって、虚構が現実にすりかわってしまう。映画のなかの映画を芝居だと印象づけるNGが、NGを現実だと印象づけるのである。NGというものには、何か不思議な力がある。成功は現実とは信じられなくても、失敗、あるいは傷は、奇妙にリアリティーを感じさせる何かを含んでいる。
 この奇妙な力は、映画のなかで設定された二人の関係によって、さらに面白くなる。映画のなのか映画では、二人は新婚夫婦を演じているのだが、外枠の映画では、男が少女に求婚し、断わられたことになっている。求婚し、断わられた男と、求婚され、断わった少女が、新婚夫婦を演じるという映画を撮影している──というのが、この映画なのだが、繰りかえされるNGを見ていると、その外枠の映画そのものが、映画ではなく、現実そのものに思えてくる。
 NGの合間に、少女があきらめきれない男は、何度も何度も女を口説く。「映画では乱暴な口をきいているが、それは監督がそう演じろというからであって、実際に結婚したら、そんなことはしない。」とか、休憩のお茶を出しながら「僕がお茶を入れたり、きみがお茶を入れたり。これが結婚なんだ。人生なんだ。」などと語りかける。
 少女は、会話をスタッフに聞かれるのが恥ずかしいのか、本当に男が嫌いなのか、あるいは男が嫌いであることを人前で告げることを遠慮しているのか、まったくわからない。ただ、熱心に本を読んでいる。男は「ことばにするのが恥ずかしいのなら、本のページをめくってくれればいい。それが返事だ。」と言ったりもするが、少女の指が動く前に、撮影がはじまってしまう。

 男が原因のNGのあとに、少女が原因のNGが繰りかえされる。二階から忘れものを男にほうりなげるシーンなのだが、少女は男をよぶとき「さんづけ」できない。名前だけを呼び捨てにしてしまう。忘れものを投げるタイミングもぞんざいである。
 このシーンも、先の男が繰りかえすNGのシーンも、少女は声だけの出演であり、姿が見えない。少女が、男を嫌っているために、動作がぞんざいになるのか、「さんづけ」できないのか。日本語でないだけに、このあたりのニュアンスがわからない。(これは、この映画では欠点というより、たぶん利点である。ことばにこめられたニュアンスがわからないだけに、余計想像力を刺戟される。)
 何度やっても失敗するのだが、男が助け舟を出す。監督に「このあたりの女性は、今では夫を『さんづけ』では呼びません。『さんづけ』できなくても間違いじゃないと思います。」
 そして、撮影は終わってしまう。
 「終わり」と知らされた瞬間、少女が茫然としたように感じられる。やっと解放されたという感じではなく、何だか気落ちしたときのように、精彩なく見える。アップではなく、全身の姿なので、よくわからないが、何だか解放感とは違った印象である。
 NGシーンの、少女の姿の省略といい、このアップを避けた一瞬のシーンといい、映像は非常に巧みにできている。想像力を刺戟するようにできている。
 少女の姿がよく見えないからこそ、少女の姿を想像してしまう。少女は男が嫌いなのか、本当は好きなのだがそれが言えないだけなのか……。
 たぶん少女は台詞を不注意で間違えたのではなく、故意に間違えたのだ。NGがつづくかぎり、撮影が終わらないかぎり、恋はつづくと思い……。私は、そんなふうに考えた。

 撮影後、車には全員が乗れないことがわかる。少女は花の鉢を抱え、一人で歩きはじめる。それを見た監督が、男に「きみは若いんだから歩いたら……」と言われる。男は少女を追いかける。
 撮影が終わってしまい、もう二度と会う機会がない。男は、必死になって口説きつづける。少女は、それでも返事をしない。オリーブの林を抜け、じぐざぐの坂道を登っていく。
 「きみのこころは氷か?美人だから鼻にかけているのか? きみ以外にもいい娘はたくさんいるんだ。」というようなことばも口をついて出てしまう。このときの激しい怒りのような男の表情が、非常にいい。切々と思いを打ち明けていたときよりも、もっと切実な感情があふれている。怒ることでしか表現できない愛も、たぶんあるのだ。
 少女は何も聞こえないかのように歩みを止めない。丘をおり、風に揺れる緑のオリーブ林をぬけ、同じやわらかさで揺れる草原を、まったく同じスピードで歩きつづける。
 冷たいことばを言ってはしまったものの、なおあきらめきれずに追いかける。丘を駆けおり、オリーブの林をぬけ、草原を駆ける。やっと追いついた瞬間、動きが止まる。少女はどんな返事をしたのか。不安げだった音楽が、一転明るくなり、男がスクリーンへ向かって駆けてくる。
 このときも、観客は本当のことを何一つ知らされない。少女の姿も、声も聞こえない。一瞬動きが止まった。そして、再び動きはじめた。少女は、そのまま歩みをつづけ、男は引き返す。そこからどんな物語を引き出すかは、観客の想像力にまかされている。
 音楽の転調によって、少女の返事が男に好ましいものだったと私は想像するが、本当のところは知らされない。

 見えるか見えないかの、男の顔を見ながら、そのとき私は、男の怒りに満ちた顔、苦しい顔と同時に、撮影が終わったと知った瞬間の、少女の茫然とした姿を思い出した。男の甘いことばに振り向かず、うつむいて本だけを読んでいた少女の横顔を思い出した。
 たぶん少女は、甘い愛だけではなく、憎しみのようなものも知りたかったのだと思う。愛は、その美しいことばとは裏腹に、常に憎しみと隣あわせにある。悲しみと隣あわせにある。憎しみや悲しみを超えて、なおかつ愛の方を選びとれるか。少女は、男に、それを問いたかったのだと思う。
 ──こうした想像は、たぶん余分なものである。こんな想像が映画を美しくするわけでも力強くするわけでもない。そうは知っていても、なぜか書かずにいられない。映画を虚構ではなく、現実のように感じてしまったからである。実際の男と少女の身の上に触れたときのように、彼らのことがこころに残ったからである。

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