偽りの晩餐

 おいしい料理の後、自然と「ごちそうさま」ということばがもれる。『偽りの晩餐』も、思わず「ごちそうさま」とつぶやいてしまう映画である
 料理は少年の視線のフルコースである。スパイスははじめて見るおとなの世界の不透明さである。不透明さ、わからなさのために、不安が生まれ、少年の視線は思わぬ形に歪んでしまう。その変化が何とも楽しい。
 不安は静かにはじまる。少年たちはホテル学校の生徒である。山のなかのホテルではじめて実習をする。列車からおりた少年たちははじめて体験する実世界を素早く見回す。冷たい風。その冷たさをくっきりつたえる山の映像。美しさが逆にこころをふるえさせる。その張りつめた美しさを破るように迎えの車がやってくる。泥だらけの車だ。その上、運転手は不気味な顔をしている。車の上にはビニールにつつまれた椅子がつんである。何がはじまるというのか。説明をはぶくことで、エルマンノ・オルミ監督は、わからなさに直面する少年の視線へ、一気に観客をひきこむ。
 山のホテルは少年たちをさらに困惑させる。まるで迷路だ。どこを歩いているのか見当がつかない。案内されるまま、世界へ踏み込むしかない。そうすると不思議なことが起こる。恋人とやってきた少女が、ことばを交わすでもなく、その恋人よりおとなの男にひかれていく。恋がこわれるときの、さびしい情念と激しい情念が、目と目のやりとりで表現される──ことば以上に心理をさらけだす濃密な映像だ。その濃密さがとんでもない世界へ入りこんでしまったことを知らせる。
 そして晩餐。主賓は死にそこなったようなおばあさんだ。客は招かれたことを喜びながらも脅えている。報告書を盗まれたと訴える男がいる。途中で死んでしまう男がいる。勝手きままにふるまう男がいる。少年に色目をつかう女がいる。そして美しい少女もいる。彼女は少年におさないころ見た天使の絵を思いださせる。見るたびに、はじめてのように思いださせる。いつまでも新鮮さを失なわない映像だ。
 映画のハイライトは料理だ。まずそうなオードブル。カエルのスープ。巨大な深海魚(?)のからあげ(?)。
 これは本当の料理だろうか。それとも不安にかられた少年の目がとらえた歪んだ映像だろうか。どっちともとれる。本物にしろ虚像にしろ、少年には不気味な形にしか見えない。つまり少年には、その不気味さが真理だ。どのような真理も虚偽も想像力のなかで一回かぎりの姿をさらけだす。そうして不安のために無際限に、つまり無秩序に動きはじめた少年の視線がとらえたものが本物かどうか問うことも無意味だ。少年は意味づけをしているひまがない。視線をさかのぼるように押しよせる「存在」を受け止めるだけでせいいっぱいだ。この緊迫した映像がこの映画の本質である。
 少年の不安はつのる。その不安のなかで少年は思わぬものを見つけてしまう。ワインを運ぶかごの下に落ちていた蝶ネクタイ。少年がしめているのと同じものだ。積もったほこりが非常に生々しい。死に直面し、叫び声をあげる生き物のようだ。そしてネクタイの一歩先に扉があった。車が一台走っていく。逃げるように──。
 このとき、確かに蝶ネクタイは叫び声をあげていたのだ。そして少年はその声を聞いてしまった。それはホテルから逃げだしたもう一人の少年の声だ。逃げ出せと叫んでいる。
 少年はこのときはじめて見たものを意味にかえる。見たものと自分の未来を結びつける。逃げだしうるという可能性としての自分を、落ちていた蝶ネクタイと扉と車をとおして見てしまう。今見えているものの向こうに、まだ存在しないものを見てしまう。意味とは存在を突きぬけた運動の形式である。
 そして少年は夜明けに幻を再現する。あの扉をくぐって。そうすると不気味な犬が追いかけてくる。食べられてしまうかもしれない。ところが──。
 犬はただ少年と遊びたかっただけなのだ──。
 野に倒れ、頭を抱えた少年の隣に犬が座って、突然、字幕でそんなことが説明される。そうして、私たちは、この逃走劇がデザートであったことを知らされる。こころをゆったりさせてくれる大胆なデザートだ。ここへきてはじめて私たちは、この映画が寓話であったことを知る。少年の視線を一貫させることで世界を切り取った寓話であったことを知る。
 そして思わず笑いださずにはいられない。少年の視線は短かい。遠くまでとどかない。かぎりある距離のなかで、現実とはすこしずれた像を結ぶ。(近視的な像ということができる。主人公の少年がめがねをかけていたことは偶然だろうか。)そのずれ具合、あいまいさは何とこっけいであることか。しかし、同時に、それがとてもなつかしく感じられる。確かにこんなふうに世界が見えた時代があったのだ。だからこそ、そんなふうに世界を見てしまう少年のこころにやさしいことばをかけたくなってくる。なぜか「ごちそうさま」と。

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