評決のとき

 クライマックスの、弁護士の最終弁論(?)に、打ちのめされらた。衝撃を受けた。そして、その弁論によって「無罪」の評決がでたとき、もっと打ちのめされた。とてもいやな気分だった。いやな気分は、だんだん怒りに変わってきた。
 弁護士はなぜ被害者を「黒人の少女」ではなく、「白人の少女でした」と語ったのか。陪審員が白人であり、「黒人の少女」では、彼らのこころを動かすことができないと知っていたからだ。「レイプされたのが白人の少女であり、その少女の父親が復讐をしたのだとしたら、あなた方はどう評決を下しますか」と弁護士は、最終的に問うたのだ。
 「白人の陪審員」は、その問い掛けにこころを動かされ、「無罪」の評決を出した。
 「事実」はどこへ行ってしまったのか。「事実」は裁かれたのか。
 この「無実」の評決はごまかしである。「事実」をねじまげ、心情に訴えかけることで「無罪」が勝ち取れたとして、その「無罪」は何の役に立つだろう。「人種差別」をなくすのに、どう役立つだろう。
 「人種差別」は残ったままである。「人種差別」という「事実」を脇に置いておいて(脇にずらし、いったん忘れてしまうことにして)、その場しのぎの「無罪」を勝ち取ったにすぎない。「事実」を無視した「評決」は、その「事実」を断罪することはできない。そうした「事実」が繰り返されることを防ぐ力にはなりえない。
 この映画は、「人種差別」と闘った白人の弁護士の物語に見える。人間のヒューマニティを描いたように見える。だが、とんでもないごまかしだ。「白人はやさしい」「白人は黒人の心情も理解できる」と宣伝している映画にすぎない。
 自分を「黒人」の場に置いてみればわかる。娘をレイプされた父親に置いてみればわかる。二人の青年は、少女が「黒人」だったから平気でレイプした。レイプした後、殺そうとした。「白人の少女」だったら、そんなことをするはずがない。したとするなら、世論が一斉に怒り、糾弾する。父親が乗り出していって復讐するまでもない。そうした「事実」がここでは完全に無視されている。
 この「評決」に対する黒人の父親の態度の描き方もあいまいである。彼はただ「無罪」を望んでいたのか。そうではないはずだ。人種差別に理解があるふうに装う弁護士の態度さえ見抜いていた。装っているだけだと問い詰めてもいた。そうした父親が「事実」を無視した「評決」に満足するのだろうか。また、それを見つめつづけてきた「黒人」の仲間たちは、それで満足するのだろうか。
 二人の乱暴な青年が、抵抗する力のないの少女をレイプし、少女の父親が復讐のために青年を殺した----というのは、きわめて「抽象的な事実」にすぎない。架空の「事実」にすぎない。最終弁論で弁護士は「目をつぶって想像してください」と言った。それは「目をつぶること」によってとらえられた「事実」、「目を開けて」しまえば消えてしまうかもしれない「事実」、「目を開け」れば歪んでしまう「事実」にすぎない。
 裁かれるべきなのは、「人種差別」の上にあぐらをかいて下した「評決」そのものである。

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