シェルタリング・スカイ

 『シェルタリング・スカイ』の主役は砂漠である。砂漠であるが、少し変わった砂漠である。砂がなかなか出てこない。風に吹かれて次々に形をかえていく砂漠、うつろいやすく、華麗でもある波紋の鮮やかな砂漠など出てこない。
 岩や石がごろごろした荒野を見せられる。薄汚いホテルを見せられる。水たまりや雨を見せられる。ラクダにのって旅をする人々よりも先に、車に乗って、あるいは列車にのって旅をする奇妙な人間を見せられる。
 これはいったい何なんだと思っていると、突然「シェルタリング・スカイ」ということばの説明が出てくる。主人公の男が、女について何やら説明する。虚無だとか孤独だとか、何か意味ありな台詞だった。そうした厳しい精神のありようと荒野が結びつけられ、「シェルタリング・スカイ」ということばが発せられるのだが、私は肝心の台詞を思い出せない。その時映し出された映像が、虚無とか孤独とかを感じさせないものだったからだ。植物が何ひとつない、岩と砂だけの風景なのだが、荒涼とした印象がまるでないのだ。虚無、孤独、荒涼といったことばは私には清潔なもの、美しいものとして響く。そうした私の思い込みとはまったく違った映像だったからである。私は、その不気味な映像に打ちのめされたのである。
 『アラビアのロレンス』を撮ったデビット・リーンならば、きっと華麗で繊細な荒野と群青色の空を映して見せてくれただろうと思う。また『誓い』を撮ったピーター・ウエアーなら本当に何にもない水平線と空を映し、その向こう側にあるとも、こちら側にあるとも、見わけのつかない「無」そのものをもスクリーンに映し出したかもしれない。
 ベルトリッチの映像はそれらとは関係ない。何かしら変なにおいがある。荒野なのに命のにおいがする。不可解なにおいのかたまりが荒野といっていい。そして、命のにおいがするということが、主人公たちの孤独や絶望を浮かびあがらせるようでもある。
 リーンやウエアーの砂漠が、その美しさや透明感で、人間の孤独、絶望と重なりあい、なぐさめるようにするのに対し、ベルトリッチの荒野は決して主人公たちを受け入れない。激しく拒んでいる。ギョッとするような生々しい荒野である。
 主人公たちは、その何もなく、そのくせ生命感に満ちた荒野で性交する。その時不思議なことがおきる。あれほど生々しく感じられた荒野が、主人公たちの息づかいに何の反応も示さないのだ。主人公たちと風景がぜんぜん溶け合わないのだ。
 これはまったく不思議な性交シーンとしかいいようがない。激しく求めあう愛の一瞬、そのとき親和するのは男と女だけではなく、二人のまわりにあるものも二人に親和する。しっくりしたものとして映るのが一般的のように思える。そうした親和力のために、たとえば場末のホテルさえ、記憶に美しく刻みこまれもする。
 しかし、ここでは親和はない。二人の行為からは豊かな感情もあふれてはこない。というより、荒野の虚無が二人の行為をむしばんでいく、といった印象なのだ。風景を映したとき見えなかった虚無、絶望が、愛の行為の最中にスクリーンからあふれてくる。虚無は二人のまわりへ押し寄せ、二人をくいつぶすようにしてあふれてくるのだ。
 二人はその虚無にのみこまれ、結局性交を中断してしまう。
 このときから、砂漠が女の体に見えはじめた。それも汗にまみれた女の体だ。それは風が吹いたくらいでは形を変えない。形を変えるのは自分の意志によってである。しかもその女の肌は汗をかいている。乾いてサラサラのはずの砂漠が汗にまみれてねっとりした女の肌のように見えるのだ。
 主人公たちが訪ねてまわる砂漠のなかのオアシスは、そして、女の陰部のように見える。土をかためて迷路をつくりあげた秘密の場所、ムッとにおいたつ局部だ。主人公たちはさかりのついたペニスである。そこを目指し、そこを通り抜ける。そのたびに、砂漠は反応し、ぬるりと形をかえて、その予測不可能な変化が、新たなヴァギナへと主人公たちを向かわせるようでもある。
 二人は愛を求めている。愛を求めることと性交することは合致すべきなのに、性交すればするほど愛から遠ざかる気分。気持ちの高まりがあり、相手の体も反応しているのに、実感がない。不気味に反応する体だけがある。たどりつけない命のかたまり、においのかたまりのように生々しく存在する。
 渇望の対象に近づけば近づくほど、逆に激しい渇望を生む──そのような存在としての女の体のように砂漠が見えはじめるのである。
 虚無、孤独とは、そうしたことかもしれない。そうに違いないと説得させられてしまう、不気味としかいいようのない砂漠である。
 主人公は、旅の過程で何もかも失なう。自分の体一つが残される。孤独、絶望だけが深まる。そして、孤独、絶望が深まれば深まるほど、孤独、絶望、虚無へる熱望も強まっていく。孤独、絶望など、本来人間が追い求めるようなものではないと思うが、それへの激しい渇望が生まれてくる。その渇望の生成に私たち観客は立ち会うことになる。最後には、その渇望に共感さえしてしまう。
 砂漠から助け出された主人公が、旅の出発となったホテルを探しあて、ふらふらと入っていく時の、恍惚とした表情に、びくりとしながら、やはり強くこころを動かされてしまった。砂漠へ行きたい、砂漠へ行って虚無そのものと性交したいとさえ思ってしまうのだ。
 全く不思議で強烈な映画である。非常に気になる映画である。

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