『ぼくの叔父さんの休暇』

 ジャック・タチの『ぼくの叔父さんの休暇』をテレビで見た。
 季節は夏。バカンスのシーズンだ。人々は避暑地に向かう。主人公ユーロもオンボロ車で出発する。彼の車を何台もの車が追い越していく。その追い越され方が面白い。後ろから猛スピードで車が近づいてくると、ユーロの車ははじかれたように、道からはみだしてしまう。追い越されたあとも道から半分はみだして走り、しばらくして土ほこりが立ち込めた道にもどる。映像として凝っているわけでも新鮮なわけでもない。しかしとても印象に残る。道からはじきだされるのも、半分道をはみだして走るその走り方も、そして、立ち込める土ほこりさえも優雅に見えるのである。気品が感じられるのである。
 なぜだろうか。ユーロのマイペースを崩さないという姿勢が自然な形であらわれているからだと思う。急いで行きたい人間は急いで行けばいい。バカンスは長い。そしてまた海のホテルで無為の時間をつぶすだけがバカンスではない。やっと動く車でのんびりホテルへ向かうのもバカンスである。たぶん、だから彼は列車で行かない。オンボロでも自分の気に入ったスピードで目的地へ行くのである。
 優雅、気品というものはどうやら持ち物などとは関係なく、行為と関係するらしいのである。この映画が全編にただよわせるおかしみは、そして、その優雅さと気品に負うものである。
 (これはジャック・タチの映画全部にあてはまるものかもしれない。たとえば『ぼくの叔父さん』のなかで、ユーロが、窓の角度を調節して、日陰の鳥籠の鳥に光をあて、さえずらせるシーンも驚くほど優雅でおかしい。光をあてられた小鳥になって歌を歌いたくなるような気持ちよさがある。生きる喜びがこみあげてくる、胸の奥で眠っている生きる喜びを励まし「目覚めよ。」と呼びかけられた気持ちになる。)
 マイペースをくずさないからこそ、そして人生は楽しむためにあるという哲学を静かに実行するからこそ、随所にあらわれる、ありふれたドタバタやギャグも品がある。他者のテンポとユーロのテンポのズレが自然とギャグを生んでいるのだ。『ぼくの叔父さん』の日陰の鳥に光をあてるなどという行為は人生にとってはムダかもしれない。しかし、そのムダをしたいときが人間にはある。そうした欲望の発露が、彼をとりまく人間とのズレをつくりだし、ギャグとなってあらわれる。だから、そうしたギャグは、偶然ではなく必然なのだといえる。
 このユーロの優雅さと気品がもっとも美しく輝くのは、仮面舞踏会のシーンである。フランスの現代史はまったくわからないが、時代はどうやら政局の混乱した時代である。ホテル客がラジオでニュースに耳を傾け、これから先どうなるんだろうと話し合ったりしている。つまりダンスの雰囲気ではないのだ。しかし、彼はそんなことは気にかけない。今はバカンスで楽しむ時だからである。
 テニスで知り合った美女がやってくる。レコードをかける。ダンスを申し込む。手を女の後ろに回す。背中がざっくりあいたドレスである。ユーロの手はほんの少しためらう。そして首の後ろの布の部分を見つけ、指でふれる。背中があいたドレスを着てきたのは女の方である。ダンスのとき、肌に手がふれたからといって失礼にはならないはずである。しかしユーロはそれをしない。自分できめた紳士道を守るのである。(紳士道とは男と女のゲームを楽しむためのルールである。)このときの指の形、ためらいの時間の一瞬の表情、手の動き──それらすべてが品を感じさせるのである。人々はそれをあっけにとられて見つめている──。
 ラスト近くの花火のシーンも大好きだ。犬に追いかけられて逃げ込んだ小屋で明かりをつけようとして花火に火をつけてしまう。この花火が何とも楽しく豪華だ。祭りのクライマックスに花火を打ち上げるが、ちょうどそんな感じである。バカンスの最後の一瞬である。これがテレビでなく映画館のスクリーンならこの感激はもっともっと大きいはずである。夜空いっぱいに広がる花火をスクリーンいっぱいに、スクリーンからはみだすくらいに見たいものである。その花火を見ることもなく散水機から水をくみ、消火しようとあせるユーロの動きも真剣で、そのくせ間が抜けていておかしい。文句なしに笑えるシーンだ。
 真夜中の花火でホテル客を全員起こしてしまうようなユーロであるから、皆から温かく歓迎されるわけがない。バカンスが終わり、町へ帰るとき、人々はあいさつし、名刺なども交換したりする。しかし、ユーロは嫌われ者だから誰もあいさつなどしない──というわけでもない。テニスの腕前に感心したおばあさんと、いつも妻の尻にひかれていた男が楽しかった、会えてよかった、と別れぎわに言うのである。「妻には内緒だよ。」などと言いながら。
 このシーンなど思わず笑い泣きしてしまう。チャプリンの『街の灯』のようなどうぞ泣いて下さい、感動して下さい──という押しつけがましい感動ではなく、ただ何となく、笑って泣くのである。ユーロに会いたいと思うのである。ユーロに迷惑した人も、今は迷惑、嫌な奴などと思いながらも、都会に帰り、バカンスはどうだったと同僚に聞かれたら「ユーロというバカな奴がいて──。」ときっと話すのである。つまり、思い出すのだ。それがバカンスだったと気づくのだ。そして、そのとき気づくのだ。ユーロに会えてよかった、楽しかった、と。
 だから私も言おう。『ぼくの叔父さんの休暇』を見ることができてよかった。楽しかった。そして、できるなら、つけくわえたい。「内緒だよ。」と。なぜだかわからないが──。

パンちゃんの映画批評 目次
フロントページ