ペレ

 麦かりをしている。黄金に色づいた畑の上を雲の影が流れる。あらかじめ狙っていた映像なのかどうかはわからない。しかし、ここで雲の影が走って当然と感じさせるような自然さでさっと流れる。偶然を必然にかえるどっしりしたカメラである。うなってしまう。どのシーンも美しいが、とりわけ麦かりのシーンに圧倒された。
 もう一度見たいと思っても繰り返しはない。その影の早さは風を感じさせる。地上をわたる風だけではなく、空の高みをわたる風を。そして空と大地の交感を。人間の力ではどうしようもない力が存在する。そしてそれは非常に美しい。その美しさのなかで人間はうごめいている。苦しみ悲しみ、時々は喜びもある。そんなことを一瞬のうちに納得させる映像である。
 映像が美しいといえばデビット・リーンの映像も美しい。彼の映画を見るたびに、世界がこんなに美しく見えて、その美しさのなかで人間が苦しんでいるのを見るのはどんな気持ちなのだろうと、いつも不思議だった。つらくはないのだろうか。世界の美しさに人間がおいついていない──そんな自覚はたいへんつらいに違いないと思う。『ライアンの娘』や『インドへの道』を見ると、デビット・リーンの苦しみを見るようでつらくて悲しい気持ちになる。
 『ペレ』ではそういう気持ちは、しかし、生まれない。人間の苦しみも希望も大地と宇宙がやさしく受け止めていてくれると感じる。デビット・リーンが美しさをねらって撮っているのに対し、ビレ・アウグスト監督は美しさをねらってはいないからだろう。
 あくまで偶然なのだ。金色の麦畑を雲の影が横切らなければならない理由などない。しかし、実は、偶然こそ隠された必然である。雲の影を嫌って、撮影を中止することは可能だ。しかし、その影をそのままとりいれて映像をふくらませていく。つまり、偶然を必然と受け止め、それを魅力にかえていく。そうすることによってビレ・アウグストの度量があかるみにでる。彼が自然をどんなふうに感じ、そこで生きる人間をどんなふうにとらえているかが無技巧の形ででてくる。
 事件はどうやっておきるか。あらゆることが偶然起こるのだ。そしてそれは必然なのだ。だからしっかりと受け止めなければならない。受け止めたものを逃がさず、しっかり味わい、かみしめなければならない。
 石の農園に来てしまったのも偶然である。醜い少年に出会い、友情を結ぶのも偶然である。身分違いの恋におちるのも偶然なら、その手助けをするのも、また「自由」と「アメリカ」を教えてくれた男の頭に石がぶつかり障害をかかえこむのも偶然である。麦畑を横切る雲の影のようにさけることはできない。受け止めることしかできない。
 しかし偶然でないこともある。管理人見習いの仕事がまわってきたときペレははっきり自覚する。人間の意志は偶然ではない。選びとっていくものである。他者を支配してのうのうと生きるか、けっして他者を支配しない立場をもとめるか、この選択は偶然ではない。偶然決まるのではない。自覚のもとに選ばれるのだ。
 悲しみも哀れも喜びも不安も──様々のものを見つめてペレは成長し、自由こそが求めなければならない唯一のものだと気づく。だから他人の自由を否定するような仕事を拒み、石の農園を去っていく。父さえも残して。
 しかし、こんなふうに書きつづけると、どうも『ペレ』の本質から遠ざかっていくような気がする。この映画の魅力は単にペレの成長にあるのではない。その魅力は麦畑を横切る雲の影のようなとてつもなく大きな空間の運動と、その空間で繰り広げられる生臭い人間の感情なのだ。その感情のどうしようもない運動なのだ。その運動をはっきりと手触りのある映像にしてみせる力なのだ。
 管理人助手にしかえしをしてやると約束した矢先にぺこぺこしたり、お金をくれたらぶたせてあげるといわれ、他人をぶつという快感にまけてしまったり──。人間の弱い部分、醜い部分がスクリーンをはみだして迫ってくる。そしてそれは「いやだなあ。」という印象をあたえない。逆にとてつもなく美しい印象なのだ。拒むことのできないいとおしさで胸に迫る。弱さ、醜さも、だきしめたくなるのだ。これは単に俳優がうまいというだけではない。やはり監督の度量の大きさが映像の底を支えているとしかいいようがない。
 すべてはその大きな度量のなかで生まれ成長していくのである。

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