霧の中の風景

 テオ・アンゲロプロスの映像の特徴の一つは、一シーン一シーンが非常に長いことである。けれども決して退屈しない。一シーンのなかにある動きが一つのリズムではなく、複数のリズムだからである。疲れた歩み、驚いて立ち止まる瞬間、ためらい、喜び──そうしたリズムの変化が、クローズアップで見る瞳の演技のようにこころに迫ってくる。
 少女と少年の年齢の違いから生まれるリズムの乱れが、さらにこころを苦しくする。ここではないどこか(ストーリーにそっていえば、まだ会ったことのない父の住むドイツなのだが、)へ行こうとする真剣さが、その乱れから激しく伝わってくる。他人を配慮しようにもできないくらい、自分の歩みに真剣になるしかないのだ。自分も疲れ、相手も疲れていることがわかっているのに、疲れたとも言えず、泣きたくなるようなリズム──それがスクリーンからあふれてくる。
 主人公の少女と少年の二人の歩行のリズムに比べると、他のおとなたちのリズムは不気味なほど一定だ。おとなとは、自分から抜け出しどこかへ行くことをやめてしまった人間なのか。驚き、ためらい、喜ぶことによって、リズムなど狂わせはしない。怒りや悲しみのとき、(結婚式の会場から泣きながら逃げ出してくる花嫁、深夜の食堂での女の取り合いなど)──そうした瞬間でさえ、リズムに動揺がない。なぜか一定のリズムという印象がある。降る雪を見上げて立ち止まるといった一定の行動パターンしかとれない、といった印象がある。
 少年と少女の生きたリズムに、そうしたおとなのいわば死んだリズム、固定化されたリズムが強引に差し挟まれ、二人のリズムはさらに乱れつづけるしかない。そして、リズムの乱れに、こころの色の変化がくわわり、大きく揺れるメロディーになり、こころを揺さぶる音楽になる。その、少女と少年だけが体験する音楽の幅の広さと深さを聞きつづけることは、まったくこころが痛くなることでもある。
 しかし、こころは痛くなっても、苦しくはない。それは、この映画の映像が、透明で美しいからだ。この美しさは、汚いもの、醜いものを隠した美しさではなく、雪道に捨てられていった馬の死のように、どう向き合っていいのかわからないような残酷なもの、あるいは暴行されたあとの血のように非道なものまで描き出してしまう透明さに負っている。さらには、行く先さえも隠してしまう激しい雨、夜の奥へつづいている街路灯の孤独を浮き彫りにしてみせる透明さに負っている。
 少女や少年から見ると、世界はこんなに美しく透明なものなのか、と驚かざるをえない。そして、その透明な美しさが、少女と少年の音楽に、ゆるぎのない構造を与えているようにも思える。つまり、少女と少年の見た風景、世界のなかで、彼らの音楽は、さらに先へ先へと進む力を与えられているように感じられてくるのだ。その世界は少女や少年にとってかならずしも歓迎すべきものばかりではないが、彼らは、それをバネにして、一層先へ進む力を得ているということが納得できる美しさなのである。

 この映画には、一つとても不思議なシーンがある。海の底から、ひとさし指の欠けた巨大な彫像の手が浮かびあがってくる。そしてそれをヘリコプターが吊りあげて遠くへ運んでいってしまう。
 露出したフィルムや霧のなかの一本の木など、説明が多すぎるかもしれないと思う映像群のなかにあって、このシーンは何一つことばも、他の映像との連絡もない。しかし、奇妙なリアリティーがあって非常に印象に残る。この映画のなかで、一番好きなシーンでもある。
 これは、たぶん、アンゲロプロス自身にとっても非常に気にいっているシーンではないかと思う。このシーンが何のためにあるのか、その理由は監督自身にとってはたぶん明瞭すぎることなのだ。だから説明できないのだ。
 あるいは明瞭すぎて他者にわかってもらう必要がない、といえるかもしれない。他者にわかってもらおうとするのは、自分にとっても完全に明瞭でないことがらだ。不透明なことろがあるからこそ、他人の同意を得ることで自分自身を信じこませようとするのかもしれない。
 こうしたこと、つまり、自分自身の感覚では明確に存在理由が納得できているために、他人に説明する方法がみつからないものが紛れ込むという現象は、どんな創作活動に携わる人でも経験することだと思う。また、他者の作品に接したとき、そうした部分を発見することがあると思う。
 こうしたものと、どう向き合うことができるか。「好き」と思うか「嫌い」と思うかしかない。私は、この手のシーンが非常に好きだ。一体何なのかわからないシーンが好きだということは、つまり、それ以外も全部好きだということでもある。「あばたもえくぼ」ということを知らないわけではないが、夢中になってしまったということだ。

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