『誰かがあなたを愛してる』

 ニューヨーク──映画のなかで何度も見た。見なれているはずだ。しかし、メイベル・チャンのニューヨークはこれまでに見たニューヨークと表情がまったく違う。ビルの形も色も、海岸に打ち寄せる波の形さえも違う。
 何が原因なのだろう。メイベル・チャンのなかに深く根をはったアジア人の精神がそうさせるのだ。そう言ってしまえば簡単かもしれない。
 知らない場所へ行ったとき、私たちが見るものは、その土地に長い間生活している人が見るものと違っている。その土地の人が見ないものを見、見るものを見る。これは私たちが自分の生活感をひきずっていくからだ。
 しかし、そうした異邦人の感覚は一過性のものだ。状況のもつパワーは非常に大きい。知らない間に私たちを飲み込んでしまう。飲み込まれてしまう。そうしてその土地の人とおなじような視線を持つようになる。それが普通だろう。特にニューヨークのように、雑多な人種と生活を飲み込み活性化していく都市では、オリジナルな視線を持ちつづけることは難しいだろう。自分では守りとおしたつもりでも、都市の方が個人のオリジナリティーを消化してしまうに違いない。
 けれどもメイベル・チャンは飲み込まれない。オリジナルな色と形をスクリーンに定着させつづける。最初から最後まで、今までに見たことのないニューヨークを浮かびあがらせつづけるのである。ここまでくると、この映画のニューヨークが新しいのは監督が香港チャイニーズであるからだと言うわけにはいかない。強い個性がそうさせているのだ。
 その個性とは何なのか。わからない。わからないままスクリーンの得体のしれない手ざわりにひきずられていく。不思議な色と形にひっぱりまわされる。音楽にもひきずられる。
 ひっぱりまわされ、ストーリーにも引き込まれていく。単純なラブストーリーである。新しいことは何ひとつおこらない。それなのにラブストーリーの行方にはらはらしてしまうのだ。まるで初めて映画を見るように。
 ラストシーン近く、男が体の奥からあふれてくる喜びをおさえきれずに街を走る。そのときの街と人間のやさしい溶け込み方。あるいは女を乗せて走る車を走って追いかける。そのときの遠近感のありよう。口にできなかった愛と、そうした自分に対するなさけなさが作りだす、とてつもなく切ない距離。走れば追いつけそうに見える。しかし決して追いつけない。彼のこころが作りだした距離だからだ。
 こんな距離感をニューヨークを舞台に映画に定着させた監督がいただろうか。突然、ニューヨークへ行って、主人公が走った道を走りたくなってくる。
 また女が振り向きたい思いをこらえて車で越えていく橋──その横顔のバックに広がる街のうるんだ色。やさしく、しっとりした響き。
 街は単なる生活の舞台ではない。人間といっしょに呼吸し、生きている。メイベル・チャン監督は、街をそんなふうにとらえる視線がある。
 この映画はニューヨークを舞台に恋愛を描いたのではなく、ラブストーリーという構造をかりてニューヨークを浮かびあがらせたのだと、気づかされる。
 まったく個性的である。
 ニューヨークは欲望を先鋭化させるなまなましい都市ではない。切ない恋をつつむようにやさしく呼吸する街だ。その息づかいが聞こえてくる映画だ。

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