太陽に灼かれて

 映像が驚くほど美しい。そして、その美しさが、しっくりこない。
 麦畑の金色の輝き。はじける夏の日差し。透明な空気。農夫の服の白がまぶしい。こうした自然が美しいのはいい。しかし、そこへ闖入してくる戦車。不気味であるはずの車体。これが違和感を引き起こさないのはどういうわけだろう。自然と対立するはずの暴力が暴力になっていない。大地を破壊する酷たらしいものとして描かれていない。
 川へのピクニック。ひんやりと清らかな水の量感。岸辺の草のやわらかさ。光を浴びる人々の肌の喜び。──そこで突然おこなわれる避難訓練。防毒マスクの異様さ。それも暴力にはなりえていない。日常の平和を踏み荒らしていく軍隊の不気味さになりえていない。
 最後に登場するスターリンの肖像が描かれた旗。気球に吊られて宙に浮かび、ゆっくりと大地を流れていく巨大な顔。それも不気味さを感じさせない。やわらかな印象しかない。
 透明すぎるのだ。
 ニキータ・ミハルコフ監督は、人間の無垢なこころが大地の美しさとともにあり、その力が軍隊の暴力を上回るということを、そうした映像に込めたのかもしれない。
 その象徴が大佐の娘であるかもしれない。
 いま起きていることの事実を知らず、ただ純粋に父を愛し、自然の光のなかで輝いている。その甘い甘い輝きの美しさ。あやうく、はかないようなきらめき。その奥に流れる命のあたたかさこそが、やがては「革命」や「軍の暴力」に壊されることなく、永遠へつづいていくものであることを、監督は語りたかったのかもしれない。
 だが、麦畑へ闖入してきた戦車を自然を破壊しないものとして描き、毒ガス攻撃からの避難訓練をなつかしい思い出のよめうに描き、スターリンの肖像を美しい幻想のようにして、映画全体のなかに溶け込ましてしまっては、監督の描きたかったであろう命のあたたかさが浮かびあがってこない。
 命のあたたかさと、それを否定してしまう革命の暴力の関係が見えてこない。革命の暴力とたたかった命のなまなましさがあるはずなのに、それが見えてこない。時間の流れのなかで、革命の暴力が自然に消滅していったかのような印象が残る。
 現代の状況とつながる視点、批評精神を欠いているために、奇妙な、美しいだけの映像という印象につながるのだと思う。

 批判精神の欠如が、革命の理不尽な暴力、秘密警察の暴力を、男と女のこころの行き違い、甘い三角関係に閉じ込めてしまっている。
 愛する女を大佐に奪われたと感じた男が、大佐に逮捕するために休暇中の一家を訪問する。それは一種の復讐である。だが、復讐のあと、男は本当は女を愛していたから大佐と女の仲を引き裂こうとしたのではなかったことに気づく。大佐や女の幸せがうらやましく、それに復讐したかったから大佐を逮捕し、処刑し、女を悲しませ、娘を不幸にしただけだったことに気づく。そして自殺する。
 この男のこころの動きを、ミハルニコフ監督は、革命やスターリン粛清と無関係に、純粋に恋愛の劇として描いてしまっている。
 そのいくつかのシーンは、そして非常に美しい。
 たとえば、男が訪ねて来たときの、だんらん。夏の光が無尽に入ってくるサロン。人々は、わがままに、自分のこころのままに語る。ことばの一つ一つがぶつかりあい、反射するようだ。その豊穰な色あい。(この美しい輝きのなかで、時代に抑圧された恋愛劇が繰り広げられる。)
 あるいは、川へのピクニックの、藪のシーン。男は、藪を挟んで、二人の初夜を思い出す。「ぼくが一番覚えているのは、きみのおなかについたゴム紐の跡。赤ん坊みたいにきれいなピンクだった。」と語るときの、男のはりつめた輝き。初夜そのもののような初々しく、なまめかしく、どきどきするような輝き。驚きと喜びの交錯。そして、はじめて愛を告げられたかのように、驚き、震える女の表情。困惑と喜びの交錯。どんなセックスシーンより、強烈で美しい。
 さらには人形劇をとおして、男と女、それに大佐の関係を演じて見せる男の苦悩。間接的にしか語ることのできない叫びの切実さ。その声を聞き取り、ふるえる女……。声にならない声が、こだまする一瞬の美しさ。
 まばゆいばかりの空気や光の、そして人のこころの傷つきやすく、傷つきながら輝く命の美しさのなかで、男だけが暗く暗く沈んでゆく。こここにある美しさのすべてが本当は自分のものだった。それが大佐によって奪われてしまった。美しい世界から、自分だけが遠ざけられている。だから、自分を遠ざけた者に対して復讐する……。
 ここには男の、悲しいこころがあるだけだ。そして、その悲しさが、男もまたスターリン粛清の犠牲者なのだと告げるのだが、そのありようがあまりに個人的すぎて、どうにも納得できない。もっとほかに描きようがあるのではないかと思ってしまう。本当に大切なものが欠けているという印象がどうしても残る。

 美しい映像──と何度も書いたが、その美しさを破壊するものが、たった一つある。「火の玉」だ。偽りの太陽だ。
 映画のフランス語のタイトルは「SOLEIL TROMPEUR」。同じタイトルのタンゴは「疲れた太陽」と訳されているようだが、このフランス語には嘘の太陽、偽りの太陽という意味もあるのだろうか。映画のなかでもタンゴの歌詞(字幕)に「偽りの太陽」ということばが出てきた。映画の冒頭、ラジオニュースのなかにも、同じことばが出てくる。また、ミハルコフ監督は「革命」のことを「偽りの太陽」と呼んでいる。
 「偽りの太陽」の映像は、男が人形劇を利用して、結ばれなかった恋を語るシーンと、男が自殺するシーンに出てくる。
 この映像が何とも不自然である。映像になっていない。自然や街の風景に溶け込んでいない。戦車さえ懐かしいおもちゃのように自然と調和させてしまった監督が、火の玉組み込み、映像を壊してしまう理由が、私には、どうにもわからない。
 革命に翻弄された男の象徴と見れば見えないことはないが、そんな映像などなくても、男の悲劇は伝わってくる。
 この不自然な映像のために、逆に、映画の残りの部分の美しさが、美しすぎて異様に感じる。
 革命と人間の関係の、未消化の部分が非常に気になる映画だった。

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