デリカテッセン

 この映画のおかしさはノイズのおかしさである。雑音のくすぐったいようなユーモアであり、未加工のものがもつ不思議な温かさである。
 肉屋の親父が若い女とセックスをする。ベッドのスプリングがきしむ。そのきしむ音。ピエロが天井を塗り替える。そのときのローラーの転がる音。二人の男が音の出るおもちゃをつくる。穴を開けるドリルの音。音叉で音の高さを確かめる。ベエエという人間の声、その高さの動物の鳴き声。メトロノームのリズム。その他。
 別々のノイズにすぎない音(チェロを除く)が、セックスのリズム、つまり肉体のリズムの加速にあわせて駆け出して行く。遅すぎず、早すぎない、その変化の妙。ひとつひとつ聞けばノイズにすぎないものが、ひとつのリズムの中で共鳴するおかしさ。
 思わず笑ってしまう。そしてそのときから、ノイズが音楽に聞こえてくる。音楽の基本は音の美しさというよりもリズムにあるのだろうか。
 さらに音のないものまで、そのリズムにあわせて動いて行く。編み棒を動かすおばあさんの指の動き。音がないはずなのに、映像をとおして、私は他の音と共鳴するリズムを聞いた。リズムと映像の変化がシンクロし、音楽に独特の色を付け加えるのだ。
 ミドルショットからアップへの変化、人間の動作全体の映像から、指先や目のアップへの変化が、リズムの変化にあわせておこなわれ、音がその絶頂を迎えるとき、耳だけでなく、目もまた音楽の絶頂を見るのである。
 これは愉快としかいいようのない体験だった。
 とりわけ、私はベッドのスプリングの壊れた部分を調べるシーンが好きだ。テレビのハワイアンにあわせて体を動かし、スプリングをきしませる。正常なスプリングのきしみにまじって壊れた音、ノイズが顔をのぞかせる。その絶妙の間。美しい音楽をきいたとき、思わず声にだしたくなるものだが、このシーンでは思わず腰をうかして映画館の椅子のスプリングを確かめたくなる。
 だが、なんという悔しさ。映画館の椅子にはスプリングがない。ベッドのきしむ音と同じ音が出ない。
 この瞬間、私ははっきり理解した。音楽の喜び−−それは美しい名曲を聞いたときにはじまるのではなく、身近なものを叩き、そのそれぞれが別の音を出すと知ったときにはじまる。物には固有の音がある。その驚きが音楽の出発だ。まるで赤ん坊にかえったみたいに、音にわくわくする。音のすべてがなつかしいものとしてよみがえってくる。その、くすぐったいようなノスタルジー……。
 ノイズ−−それは音楽を乱す乱暴な力ではなく、美しい音の素材だ。加工する前のダイヤモンドみたいなものだ。可能性としての音が隠れている。隠れているからこそ、不透明なのだ。そして、やわらかいのだ。
 このノイズの可能性としての美しさを最大限に表現したのが、チェロとノコギリの合奏である。これは信じられないくらい美しい。「道」のトランペットより美しい。武満徹の音楽のように、どこかとてつもなく深いところから響いてくる音楽だ。醜いはずのノイズが、抑制によって不透明な部分を脱ぎ捨て、繊細で悲しくやさしい音に生まれ変わり、チェロとからみあい、ささやきあい、さらにそれぞれの音の美しさに磨きをかけてゆくのである。
 音楽とは何か。他者との呼吸の合致、間の合致だ。無垢の祈りだ。「好き。」とも「愛している。」とも言わない。ただ音と音をからみあわせ、音の自在な運動をそっとみつめるように演奏をつづける二人。異質なもの、けっして溶け合わないものが、やさしい呼吸のあわせかたで見事にひとつになる。それぞれに独立していながらひとつの世界をつくり出す。その呼吸のあわせかた、間のとりかたが音楽なのだ。


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