音楽

−−ある映画の記憶



「一番びっくりした音楽は」
と、男は言った。駅のコンコースの外れ、
現代の荒れ地、破れた新聞が風に吹かれて流れてくる場所で、
アコーディオンを弾いているのを見たときだった。
「何を夢見ているんだろう。」と
言わなくてもいいことを口にしたとき、
男は話しはじめたのだった。

「一番びっくりした音楽は
『パードレ・パドローネ』という映画のなかの音楽だ。
イタリアの寒村。学校へも行かせてもらえなかった青年が
荒野で羊の世話をしている。
こころを通わすものがなにもない。
そのとき、どこからか音楽が聞こえてくる。古典の美しい曲だ。
ストリングスつきの華麗で流れるようなワルツ。
何だろうか。
そう思ったとき、岩影から男が姿をあらわす。
アコーディオンを弾きながら。
たった一人の男が。」

男は、それから興奮しはじめる。
私に話しかけているのを忘れる。
ビルを工事する音、ダンプカーが行き交う音、鋼鉄がぶつかりあう音、
スニーカーのすれる音や硬いハイヒールの音、子供の足音
噂話や恋人のケンカの声が
男の声を切り裂いていくことを忘れ、早口になる。

「現実の音はアコーディオンだけ、
だが、羊飼いにはストリングスつきの音楽に聞こえた。
頭のなかで、今そこに存在するのではない、美しい響きが広がる。
それが音楽なのだ、
今ここに存在するものではなく、ここに存在するかもしれない、
美しいものを引きだすのが芸術なのだ。」

ふいに剥き出しになった男の怒り、
抑えきれない感情の鮮やかさ、
荒野の羊飼いが触れたのも
そんな美しい音楽だったのか。


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