リバー・ランズ・スルー・イット

 兄弟がフライフィッシングに行く。兄から離れて、弟が川のなかへ進む。毛針をつけた釣り糸が光りながらなめらかな軌跡を描く。
 釣りのシーンはどれも美しいが、とりわけこのシーンが美しい。
 毛針が水面をなぞるように、二、三回と円を描く。命があるもののように、輝きながら、糸が空中を走る。
 それは確かに命がある。弟の体のなかを流れている命が、腕を通り、竿を通り、釣り糸を通り、毛針のなかに脈打っている。
 水面の下から、その軌跡を眺めている鱒は、それを本物の昆虫と勘違いする。水面に落ちてきたとき、おもわず食らいついてしまう。鱒は、いわば弟の命そのものに食らいついてしまうのだといえる。
 この弟の腕と比べると、兄の腕はずいぶん劣る。彼はリズムをとり、鱒の潜んでいるポイントに毛針を落とすだけである。それはいわば、最小限の動きである。もちろん最小限の動きにも技術が必要だ。そして、そこにも確かに命が存在し、自己をコントロールする力が輝き、自己をコントロールすることができる人間だけが発揮する輝きがある。ただそれは、自己の体を突き破ってあふれていく命の輝きとは、性質の違ったものだ。
 兄弟は父から釣りの技術を教わったのだが、弟は教えてもらったこと以上のことを自然に身につけた。そういう意味でも、弟のあやつる釣り糸には、彼自身の命が流れているといっていい。教えられたものを乗り越え、人が成長していくとき、そこには今まで存在しなかった輝きがある。その輝きこそ、命の不思議さなのだ。そして、それを個性と呼ぶこともできる。(この映画の原作者は、それを「芸術」と呼び、そのことばが映画のなかでもつかわれている。)
 弟は釣りを通して個性を確立したのだといえる。父や兄にとっては、釣りは、かけがえのないものとはいえ、趣味なのである。そこでくつろぎ、こころを遊ばせる時間なのである。しかし、弟にはそれ以上の者だ。

 弟の体のなかからあふれてくる命の輝き−−それにひっぱりだせれるようにして動いてしまうのは鱒だけではない。
 この命の輝きを、最初に強く感じたのはたぶん兄である。弟には何か内側からあふれだす不思議な力がある。それはどうにも止めることのできない流れなのである。そして、何か人を魅了してしまう力がある。
 たとえば、弟は、ボートを盗んで滝を下ろう、という提案をするそれが危険なこととわかっていても、なぜかつられて、やってしまおう、と他人に思わせ迷うな不思議な力が、彼の体全体からあふれている。
 この不思議な力をもった弟を、兄はどんなふうに愛せるだろうか。そばにいて見守ることしかできない。ボートの滝下りでは、いざ出発という段階で、他の友達はおじけづいてしまう。しかし、兄はついていくしかない。
 映画ではあまり説明的に描かれていないけれども、この弟の発散する命の輝きは、善良な人々だけでなく、その他の人間も引きつけてしまう。
 弟は、やがてポーカー(?)で借金をつくり、いかさまをし、その結果殺されてしまう。そうした人生をたどってしまうのも、彼が発散する不思議な輝きが原因だろう。
 牧師である父の教えを忠実にまもり、そこから出ない兄に対して、誰かが賭をしようと誘いかけはしない。人生の決まりにあわせ、自己をコントロールして生きている人間に、そんな誘いはこない。人生の、あるいは社会の決まりを自然に破ってしまう命の輝き−−それを嗅ぎ取るからこそ、人は、さらにそれを破るようにと誘いをかける。
 教えられたことを乗り越え、その向こうへ命をあふれださせるというのは、魅力的であると同時に危険なことなのである。そうした危険なことができるだけの力が弟にはあった。危険だからやめなさい−−というのは、そうした力を欠くものの人生訓なのだと思う。(もちろん、それが悪いというのではないが……。)

 生きるとはどういうことなのか。教えられたことを守り通すことだけではない。教えられたことを基礎に、それを乗り越えていかないかぎり、人は生きたことにはならない。それはときには危険に満ちている。しかし、それは誰にもかわってもらえない危険であり、その危険が人間をよりいっそう輝かせる。
 ラスト近く、弟は巨大な鱒をヒットする。その瞬間を父と兄は見ている。弟は鱒を取り込むために川のなかを進んでいく。急流にのまれる。姿が見えなくなる。しばらくすると竿をかざした手が流れから突き出てくる。そしてまた、激流にのまれる。そのときも父と兄はじっと見ている。
 最後にあらわれたとき、弟は信じられないような巨大な鱒を手にしている。まぶしいくらいの笑顔。その、命の輝き。それは危険をくぐりぬけることができた彼だけの輝きである。

 これは、弟の命の輝きをじっと見つめつづけた兄の視点からの映画である。見つめつづけること、けっして見放さないこと−−それが愛というものだ。手助け−−それは、たぶんしようとしてもできない。人はそれぞれの命があふれる方向へ歩きつづけるものであり、手助けとは、おうおうにして、その方向を別の方向へ変えようとする試みだからである。  弟の輝き、その美しさ、魅力が、彼自身の内部の命が発露したものだと知っているからこそ、兄は、それを見つめつづけた。それが兄の生き方であり、兄の個性であり、兄の命の輝かせ方である。  映画を見ているあいだは、弟の命の輝きに目とこころを奪われる。そして、映画を見終わったあと、その弟を見守りつづけた兄のこころに胸を打たれる。その静かな輝き、おだやかな苦しみ。いきる意味、兄弟、あるいは過程というものの姿が、スクリーンの向こう側から控えめに浮かび上がってくる。

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