ファイト・クラブ


監督 デイビット・フィンチャー 出演 エドワート・ノートン、ブラッド・ピット、ヘレナ・ボトム・カーター

joushin(2001年9月3日)
ファイトクラブとても良かったです。
ラストのフィンチャーの腹の括りっぷりにはもう脱帽です。
しかもハリウッドで。
ラストシーンが問題になってますね。
パンちゃんさんのような批判があって当然だと思います。
集団テロで家族、友人を亡くされた人はこの映画を絶対許さないでしょう。僕も、もしそうだったら、げろ吐くでしょう。
でもあの太った睾丸を無くした男が死んだとき、タイラーの部隊が唯一ルールを破ったシーンから、そういったことはフィンチャーも分かってるはず。
ラストシーンは、表現のためにリスクを負った、そう思います。
では、それほどまでに何を表現したかったか?
もちろん暴力なんかではなく、反現代社会だと思う。
今どき、反社会。
どの監督も個人の関係や苦悩にフォーカスしていく中で。
しかもそういう作品は素晴らしいものが多い中で。
成熟社会の中で。
くそまじめに反社会。
どうしてこの映画がこんなに笑えるかと言うことを考えるとき、もちろんブラックユーモアもねらってる部分はあるけれど、くそまじめにこんな思想、反社会を表現したからではないかと思います。
真剣になればなるほど人間は滑稽になるものでしょ。
ラストシーンがフィンチャーの表現したいものによって許されるかどうかは分からないですが、反社会という思想の嘘を信じることができ、その嘘の強度をばきばきと感じられた映画でした。
フィンチャーはすごい監督だよ、本当に。
KIKU(2000年4月14日)
yi7m-kkrk@asahi-net.or.jp
★★★
こんなに話が盛り上がっているとは。
僕の周りでは「つまらん」という人ばかりなのに。
デビット・フィンチャーは元々MTVの人ですよね。
だから、今までの作品も、ミュージックビデオあがりの人が頑張って映画っぽく撮っていますって感じがしちゃって。
要するに「浅い」。理由は無いけど感覚的に深くこない。
だけど、今回はついにミュージックビデオに戻ったか!
本領発揮じゃん!と思いました。
僕はミュージックビデオ好きなんで思うけど、あれはミュージックビデオです。
そういう意味では斬新な映画かも。
しかし、ブラピと二人で世界制覇しちゃったほうが売れたのに。
また中途半端に「映画」っぽくしちゃったのね。
MILLS(2000年3月16日)
n-simiz2@kwix.co.jp
さすが、デビット・フィンチャ−!
この映画は1回見ただけでは理解不可能。あまりヒットしなかったのは その理解しがたい内容の、奥深さに有ると思う。今後、鑑賞回数を増す たびに痛感させられるだろう。とくに自分を含めた、平凡な日々を送っ ているサラリーマンの方!必見!1日も早くDVD化を望む。また、映像 もすばらしい。オープニングはフィンチャ−らしく、重低音サウンド と、吸い込まれそうな映像!まさに美学。本編でのサブリミナル効果 あなたは確認できましたか?最初の20〜30分はブラピは出てきません が、一瞬4回程ブラピの姿が現れます。まだ見てない人は残念、 劇場で見るべき映画でした。もちろん★★★★★
kigc(2000年1月21日)
kigc@mail.goo.ne.jp
あのラストシーンは、あんな大変なことをあんなに美しく描くことで、どこからどこまでがノートンの妄想なのか、あるいはこの物語すべてがノートンの頭の中だけの物語であるのかもしれないことを示唆したものだと思いました。あれだけのケガでも立って話していられることもそうです。それで冒頭の、ノートンの頭の神経回路からピットの突きつける銃口に疾走するシーンは、これがノートンの妄想による暴力についての映画であることを暗示していたのかとも思いました。とはいえ、病める現代人への痛烈な批判にはなっていると思いますが、キューブリックの「オレンジ」を引き合いに出すほど「暴力」が中心的主題になっているとは思いませんでした。
しかしあのラストに対してある種の違和感を覚えたのも確かで、その正体はおよそパンちゃんの主張するようなことだったのかも知れません。物欲に支配された自己を解放するために物欲を煽るクレジット会社を破壊するというのは(例えそれが無人で直接は人を傷つけないとはいえ)、学校を休みたいがために学校に放火するようなもので、あまりに子供じみていて、だからこそそれをああも見事に成功させてみせるというのはバカバカしいほどブラックだなと、「トゥルーライズ」の核爆発をバックに抱擁しキスするシュワちゃんとジェイミー・リーを思い出してズッコケ気味に苦笑したのですが、誰もがそう反面教師的ブラックジョークと捉えるわけではないことからすると危険思想の映画とも言えますね。自分がもともとフィクションから影響を受けにくい性質だからか、物語の中で展開される思想や主張にはやけに冷静というか無頓着で、パンちゃんのような批判精神も時には必要かなと思ったりもしますが、そこはやはり人それぞれですね。
どこだったか忘れたけどカメラ目線のところがありましたよね。それとか北欧家具の紹介?のところや、そういう映像のお遊びも好きなんですよね。映像的にも主題的にも存分に楽しめたので、★★★★★です。
パンちゃん(1999年12月20日)
映画には途中までは面白いのに最後の一瞬で許せない気持ちになるものがある。最後にとても容認できない思想があらわれたときである。この映画はそうした映画である。 これから先は、ここではなく批評コーナーの『ファイト・クラブ』の文章を読んで下さい。 「弁証法」とは何かについても書いてあります。
jean(1999年12月18日)
jean@pop21.odn.ne.jp
暴力がテーマの映画と聞いていたけど、それほど危険な感じはしませんでした。
秘密組織での「ファイト」自体は、一対一のフェアなスポーツという感じで、血みどろになっていても邪悪な感じはしなかった。
ただし、ブラピが地下室の無断借用の代償に、持ち主にボコボコに殴られながらもヘラヘラと笑っているのや、上司の目の前でほとんど楽しげに、自分を痛めつけるノートンの姿は、これは相当危なかった。
もう痛みによる自己回復どころではなく、狂気の世界に行ってしまっている。突き抜けている。痛みを恐れなくなったら、もう人間じゃないと思う。その証拠に、ラストではノートンはモンスターになってしまった。(でなきゃ、あんな状態で生きていられるわけない。)
常軌を逸した人間の行動は、すさまじく見るに耐えないと同時に、どこか滑稽でもあり、それがノートンやブラピの体を張った演技でタイミング良く表現されるので、つい何度か吹き出しそうになった。
ブラックな笑いに興味のある人には、かなり楽しめると思う(星4つ)。
Carrot(★★★★★)(1999年12月16日)
fwkf9153@mb.infoweb.ne.jp
暴力映画』などとも言われてますが 私は『ファイト・クラブ』の殴り合いに「暴力」の言葉をつかうのは間違ってると思 います。
ファイト・クラブのメンバーには名前がない。つまり特定の個人に怒りをぶつけるよ うな ものではなく、相手がいて相手はいない。これは実体験とぼしく育った若者たちが  痛みを感じることによってリアリテイーを体感し、自己と自己の生を認識する。
つまり殴られるためのクラブなのだから。
映画は現在の社会をイヤミなほど(見かけ上は)完全につくりあげた(そしてそれは確 実 に崩壊へと向かっているが)親世代に対する痛烈な風刺でもある。
親世代はそれを聞こうとしない。叫びが聞こえないという。だから叫びは声高になり VWをこわし,行動は過激になっていく。これは警鐘なのだと思う。
「時間」に「情報」に「押しつけられる生活スタイル」に あらゆる物に がんじがらめになっていた主人公はもう一人の自分タイラーによって まず自己破壊し、自分を縛り付けていたものからとき放たれていく。
最後に自分のなかのタイラーを殺し→乗り越えることによって はじめてしっかりと目を見開き,自分を確立する。
私は身勝手なようだが、子供をもって初めてこの社会の30年後40年後が 真剣に心配になってきた。するといろんな物が破綻しつつあるこの社会を 背負わされる今の子供たち,若い人たちの悲鳴のようなものを感じはじめ、 この映画を見たときにまさにこれだと思った。
主人公2人の演技に関しては 私はファンだから冷静な評価ができないかもしれな い。
でも映画の感想はうんちくを並べたところで結局は好き嫌いだと思うから書くけど、 私はブラッド・ピットのタイラー・ダーデンに地獄に引きずり込まれるような男の魅 力 を感じたし、殴り合いのシーンは生なましく美しく、あれに色気を感じないなんて 信じられないが、やはり好き嫌いであろう。
初めから思い入れの強い映画なのでひいきめもあるかもしれないが 私は素晴らしい映画だとおもう。D・フィンチャーの感性にも脱帽。
JO(5つ星)(1999年12月14日)
mitsuoka@x-stream.co.uk
「僕個人を象徴するようなダイニング・セットが欲しいな。」
雑誌、テレビ、社会のモラル、そしてルールに犯されてきた彼はこんなことを考えて毎日を過ごしてきた。そこにタイラーが現れて、すべてが変わった。
すべてをコントロールしていたはずの自分の人生は、くだらない物の集まりだった。
D・フィンチャー監督のファイト・クラブは、まさに90年代の時計仕掛けのオレンジ。目覚しいスタイルと演出で、映画は我々に問いかける。
カウンセルで心を開き合うのは、社会のストレスの理想的な解消法。誰もがうなずくだろう。
金玉をとられた男たちは、お互い抱き合って泣く。「自分は、まだ男だよな?」
  平和ボケした現代社会で彼らは、どうすればそれを証明できる?
もし、その証明が「暴力」だったら? 
自分に自信を持つ手段が、ひたすら誰かを殴りつける事だったら…。それは危険な考えだ。だが、いったん芽生えたらもう止まらない。
「すべてを捨てちまえ。壊しちまえばいい。」と言うタイラーは、平凡な一般市民に銃を突きつけ、夢を実現しなければ殺す、と脅す。
  今のままじゃ死んでるも同然だ、と。
裕福な奥様方が捨てた脂肪を石鹸に変えるタイラー。 
現代社会で、エド・ノートン達はまさに要らない脂肪だった。
汚い脂肪(目的の無い男たち)+ 調合(タイラー)=きれいな石鹸〈又は爆弾〉、と言う方式は抜群のメタフォーだ。
血みどろで殴り合う彼らを最低と感じる人もいれば、かっこいいと思う人もいるだろう。これは決して暴力を指示する映画ではなく、あくまでも中立に暴力とは何かを表現する。
ファイト・クラブはスタイリッシュなスリラーであり、ドラマである前に、ブラック コメディーである。カリスマ爆発の若手俳優達をそろえ、監督は期待を大きく上回る傑作を作り上げてくれた。
まみ君(1999年12月13日)
90202525@hikoboshi.net
星4つ
この映画、「猿の惑星」だね。主役の名前も同じだったような。
やや中だるみの感はあったが、おもしろい映画だった。
癒しクラブからファイトクラブへ移るところなんか、いやみっぽくてよく考えられているよね。
結局みんなであつまりゃこわくない、集団の力で個人の苦悩を希釈するような。
ラストで「もう大丈夫。」とかいって、町が爆発するけど、あれは悪い方の人格に戻ったのかな?
インパクトの面では猿の惑星の方がだいぶ上かもしれない。ただ確かに勘違いして暴動が起こりそうな映画ではある。そういう意味では問題作だ。よい子のみんなまねするなよ。世紀の終わりめを意識したのだろうか。通常ありそうにはない映画ではあるが似たような事象はどこにでも起きている気がした。あと100年くらいで別の人種に日本も乗っ取られそうだ。
パンちゃん(★+★+★)(1999年12月12日)
この映画がつまらない一番の理由は暴力描写に魅力がないことだ。
チラシなどにはキューブリックが『時計じかけのオレンジ』を引き継いでいるというようなことを書いているが、これは全くの嘘。
キューブリックの『オレンジ』がすごいのは暴力を非常にエロチックに描いたことだ。見ていて恐怖心を感じると同時に、何かうっとりする。暴力を快感をリアルに感じられることだ。
魯迅が何かの小説で、悪漢が張りつけにあいながら、「今度生まれてくる時もお前の女を奪ってやる」と言う芝居のシーンにうっとりした、というようなことを書いているが、キューブリックの映像には、そこで行われていることが悪であるとはっきり自覚できるのに、なぜかそのことに引きずられうっとりさせる魅力があった。
そんなふうにうっとりさせるような暴力シーンが『ファイト・クラブ』にはない。
絞り込んだといえば聞こえがいいがようするに痩せた男が殴り合うシーンがあるだけで全然色っぽくない。官能的でない。血も美しくない。血は不思議なもので美男子や美女の肌に流れると、その肉体を命の輝きで彩り、強烈なエロチシズムを発散するものだが、この映画では血が流れても全然美しくない。血の花が咲かない。血を見たい、という切ない気持ち、非常識な気持ちに全然ならない。
これでは暴力にのめり込んでいくという登場人物の感じが伝わって来ない。
これはいったい何なんだ、と思っていたら、とんでもないオチが待っている。白々しいオチが待っている。フィンチャー監督の前作『ゲーム』そっくりのオチである。(そっくりといっても、もちろん違ってはいるが。)
オチをばらすと映画が面白くなくなるという映画があるが、この映画の場合、恥ずかしくてオチをばらす気になれない人も多いのではないか。
恥ずかしさをこらえて、あえて書けば……。
*
この映画のオチは、映画が暴力をテーマであるかのように装いながら、ついに装いきれず破綻してしまったために、観客をごまかすためのものに過ぎない。
キューブリックの『オレンジ』は、強烈な暴力を描くと同時に、暴力を封じ込める方法を描き、またそうした暴力を封じ込める力が人間性を破壊するもっと野蛮な暴力、権力による人間性の否定であることまで描いて見せたが、この映画では何もかもが個人の幻想に収斂してしまっている。
この映画が公開されたあと、アメリカでは若者がファイト・クラブごっこをすることが話題になったらしいか、実に健全な反応だ。この映画は、「暴力とは何か」などということを考えたこともない無邪気な若者が、たかだか「ごっこ」をしてみるしかないような、ありきたりの映画に過ぎない。
ヨーロッパでは好評だったとも聞くが、「フィンチャーおたく」人口がアメリカよりヨーロッパの方が多かったからだろう。
*
この映画の評判につられて、もしかするとこの映画は暴力による自己解放、人間性の解放までを描いた作品かもしれない、と私が想像したのは全くの間違いだった。
その思想が、バタイユの暴力論・エロチシズム論とも通い合う物があるかもしれない、と予想したのも全くの間違いであった。
この映画は、ブラッド・ピットが『ジョー・ブラックをよろしく』で売った色を「上半身」にまで拡大しただけの、「色物」に過ぎないとさえ言えるかもしれない。
*
これだけ否定しながら、なぜ★が2個ついているか。
苦悩告白のカウンセリングに紛れ込んで自己の解放を試みる人間の残酷な弱さを丁寧に描いている点、つまりアメリカの現実を丁寧に描いている点と(+★)、エドワート・ノートンの演技への評価(+★)。
暴力描写がつまらないと書いたが、一か所だけ引き込まれたシーンがあった。ノートンが上司の部屋で、自分で自分を殴り、傷つくシーンである。まるで本当に誰かに殴られているかのように見える。「幻想」が、彼にとっては確かに真実だったのだと納得させるだけの力がある魅力的なシーンだった。
他の暴力シーンにもそうした「幻想」を喚起する力があれば、この映画はずいぶん違って来ただろうと思う。