Life is Beautiful(2)

監督 ロベルト・ベニーニ 主演 ロベルト・ベニーニ、ニコレッタ・ブラスキ、ジョルジオ・カンタリーニ

片野英児(1999年7月11日)
eiji@jf6.so-net.ne.jp
全員の感想を読みました。
僕と同意見は、麗美さんとか。アレックスのパパさんです。
この作品は、僕にとっては、パーフェクトです。
けちのつけようがありません。
ニューシネマパラダイスいらいかな。
こんないい映画は。
ただ、反対意見のパンさんなどの意見は、驚きました。
まったく、そのリアリティのなさとか、デティールのあまさなど、わからないわけではないですが、なぜ、そのように感じてしまったかというと、僕はこう、推測します。
ベニーニの演技がわざとらしく、おもえたのでしょう。
その時点で、この映画は、最悪の作品になります。
そんなわけないだろう。
うそくさうなあ。
そう思いながら見てしまったのでしょう。
僕は、それがまったくありませんでした。
逆に、彼の演技が、その疑問をうちけしてくれました。
いろんな感想があって、おもしろいなと、思いました。
僕と同じ価値観の人がいると、うれしいですが、ちがう人の意見もひじょうに興味深かったです。
片野英児(1999年7月11日)
eiji@jf6.so-net.ne.jp
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
★が、いくつあってもたりません。最高傑作です。
いろんな人のこの映画の感想を、見て特に、感動しきれなかった人達にいいたいことがあります。あなたたちを、否定するつもりはありませんが、さびしい人たちですね。なんか、リアリティがないとか、子供は、あんなに素直ではないとか、それもよくわかりますが、これは、映画ですよ。人が演技してるんです。その時点で、うそなんですよ。ドキュメンタリーではないんです。
確かに、疑問点はいくつかありますが、ベリーニの演技は、映画を見ているときも、そんな疑問点をもつことを、忘れさせてくれます。こんなに、泣いたのは、北の国から と蛍の墓いらいですが、こんなに、笑って泣いたのは、この映画だけです。
本当に、すばらしい。
きれいごとですが、希望と笑うことをわすれたら、人生、終わりですよ。
パンちゃん(7月10日)
(すぐ下のnanaeさんの書き込みに対する意見です。nanaeさんの意見を先に読んで下さい。)
確かに少年の最後のモノローグを聞けば、少年が真実を後から知ったことはわかります。
ただ、少年がそのとき、どのように感じたかはわからない。
映画全体は、命をかけて自分を守ってくれた父に対して、彼が深い愛情を感じ、父の人生は素晴らしいものだと称賛していることはわかる。
けれど、少年がどのようにして、そういう気持ちになっていったかが、よくわからない。どのようにして父を失った悲しみを乗り越えていったのかわからない。
父が命をかけて自分を守ってくれたということは、自分がもっと慎重に行動していれば父は死なずにすんだかもしれない、という自責の思いにもつながるものだと思う。そうした複雑な思いをどうやって主人公は乗り越えたのか。
こうした問題は映画には描きにくいものかもしれない。
でも、それを知りたいと、私は思う。それを映画で見たい、と思う。
少し補っておけば……、上のように書いたからといって、「人生は美しい、素晴らしい、生きるに価する」という父の命をかけた主張を否定しているわけではないのです。
その主張はとても美しいし、とても勇気があるものだと思う。
そう感じるからこそ、それを受け止めるときの少年の心の変化が描かれていれば、それはもっともっとしっかりした主張になったのに、と残念に思うのだ。
少年の心の変化、精神の成長過程が描かれていないために、この映画は「寓話」になってしまった。現実になりそこねた、という印象が残る。
この映画を好きになりたい。けれど好きになれない理由が残ってしまう。それが残念。
(私は、『プライベート・ライアン』にも『シン・レッド・ライン』にも同じような思いを感じた。どの映画も、それを高く評価する人の感じていることはよくわかる。同じように評価したい気持ちは私にもある。けれど手放しになれない。心の奥に非常にひっかかるものがある。こういうとき、私は心にひっかかりがあるということを、まずはっきりさせたい、と思う。
そのひっかかりは自分ひとりでは取ることができない。いろんな意見と触れ合い、そこから新しい視点を見つけ出す以外にない。そう思って、こうした感想を交換できるページを開いています。ぜひ、いろんな意見をお聞かせ下さい。)
nanae(7月10日)
 パンちゃんの意見を読んで、改めて気付いたことがあるので 書かせて頂きました。
 映画を見ながら、少年の心理に関して私も確かに違和感を 覚えました。
 なぜ少年は、ずっと一緒だった父親がいなくとも不安も見せず、 嬉々として戦車に乗り込んだのか。そしてラストシーン。母子 再会の後「1000点取った、勝った」「勝ったのよ」という台詞で 終わっていて、母子の喜びの心理と、主人公の悲しい最期を ひきずっている観者の心理が噛み合わない。「おいおい、 お父さんの存在をなぜ二人とも口にしない」とつっこみたく なります。
 しかしここで「父が命を捧げてくれた。」という、少年の最後の モノローグを思い出せば、やはり彼は父親の行動と最期 (そしてゲームだと思っていた収容所の日々の意味するところ) を後に知ったのだ、ということがわかります。
 それから「子供を守ることができなかった親の人生は?」 というパンちゃんの疑問について考えたこと。「少年が苦悩した のちに人生の美しさを語れるのでは」という疑問に対する意見 にもなると思います。
 ベニーニが掲げた「人生は美しい」というテーマは、「このような 人生なら美しい」と、人の生き様を比較して優劣をつけるような ことを意味するのではない、と私は思います。「どのような状況 にあっても、この世に生きているだけで素晴らしいことである。 そしてそれに気付こうよ」と彼は言いたかったのだと思います (彼にこのテーマを着想させた、トロツキーの日記の台詞「いろ いろなことがあるけれど、それでも人生は美しい、生きるに 価する」からも推測できる。このときトロツキーはスターリンが 放った暗殺者から逃れることができず、死を待つのみの状況 であった)。
 「人生は美しい、素晴らしい、生きるに価する」という絶対的な 真理を、自然に内包している人たちには意味のもたない映画 かも知れません。生まれてこの方、「生」の意味・意義を 問いただしながら、一度も心底「楽しい、幸せ、生きていて よかった」と思えなかった私にとっては、「人生は生きるに 価すること」そして「人生は美しいと言えるためにどうすれば いいか」を教えてくれた『ライフ・イズ・ビューティフル』でした。
竜崎 麗子(★★★★★)(7月6日)
fwit3396@mb.infoweb.ne.jp
 みなさんの批評を読ませていただきましたが、なるほどこういう見方もあるのか、と正直言って驚くことばかりでした。
 私は、この映画を見たときにただただ素直に感動するばかりでした。と言うのも、人それぞれ好みがあるのは誰もが納得してくださると思いますが、私の好きな映画は、「生きる力・勇気を与えてくれる」ものなので、このライフイズビューティフルはまさに、私が大好きなタイプの映画だったからです。
 各方面からの、この映画に対する批判を読んでも、この映画からもらった、生きる勇気と言うものは一向に衰えませんでした。ちなみに今まで一番勇気を与えてくれたのは「フライド・グリーン・トマト」です。このライフイズビューティフルはそれに匹敵する大切な映画になりました。
 いつも不安・不満を抱えて悲観的に人生を生きている人に、私はおすすめしたい映画です。
みさきたまゑ(★)(1999年7月4日)
misaki@ceres.dti.ne.jp
http://www.ceres.dti.ne.jp/~misaki
  
わたしの見た回はまだ空席があったが、出る時には廊下に長蛇の列。すごい、大 入りなんだよ。
一つの寓話として見ろというから見るのだが、今までの暗くて深刻な戦争映画になれ ているせいか、素直に感動できない。
なんでだろう?
感動できない、と書いたのは映画におけるリアリティについて、つい考えてしまうせ いだが、そんなことを持ち出してはいけないという意見もあちこちで見たり聞いたり した。
単純に、あんなにぺらぺらとおしゃべりを続けるイタリア男は大嫌いなんである。 ちょっと静かにしてくれといいたくなる。収容所にいた他のユダヤ人たちはそう思わ なかったんだろうか。思っていたはずだがなあ。すべてがうそくさい。だからこの映 画は好きにはなれない。
パンちゃん(1999年6月29日)
川島さんの提起している問題について考えるのは、大変難しい。
私なりに思うことは、映画の主人公の少年がどのようにして「事実」を知ったのか、そのことが描かれない限り、この映画は「寓話」ではなく、嘘八百になるということだ。
この映画で見る限り、少年はホロコーストという事実を知らない。それを「ゲーム」だと思っている。また、父親が懸命に嘘をついて(あるいは真実を告げないことで)少年を守り通し、命さえ犠牲にしたことを知らない。
少年が知っているのは、自分が「ゲーム」に勝ったということ、一番の褒美に戦車をもらえた(?)ということだけだ。
少年は、ゲームに優勝した褒美に戦車に乗り、アウシュビッツを出る。そして生き残った母と会う。
母はたぶん夫が死んだことを知っている。夫が命をかけて守り通した少年が生きていることを喜ぶ。
だが、少年は?
少年はもちろん母と再会できたことを喜ぶ。でも、そのとき父はどうしたのかと、思わなかっただろうか。
この映画は少年の心理を非常にご都合主義的に描いているが、このラストシーンもその一つだ。
母に会った少年は、絶対父はどうしただろうと思い返すはずだ。アウシュビッツで、あれだけ長い間一緒にいた父。ただ一人心を開いて話し合い、愛し合って来た父。その不在について疑問に思わない子供がいるとは信じられない。
少年は、いつそれを問いただすのか。いつ、それに気づくのか。
真実を知って、少年は苦悩するだろう。後悔するだろう。その苦い精神の涙をくぐって、初めて「父の人生は美しかった」と言うことができるのかもしれない。その苦い涙をくぐらないことには、絶対に「父の人生は美しかった」という思想は生まれない。
この映画は、その一番肝心な苦悩を描いていない。一番大切な部分を子供の「愛らしさ」で隠している。子供の「愛らしさ」を前面に打ち出すことで、観客の視線をはぐらかしている。
私はこうした子供の利用の仕方(子供の描き方)が大嫌いだ。
*
この映画で、もう一つ思うことは、自分の子供をホロコーストの惨劇から守り通せなかった父の、あるいは母の人生は、それでは美しくなかったのか、という問題だ。
私は、たとえば自分の命のために子供を犠牲にしてしまった人の人生も、その苦悩ゆえに美しいものだったと思う。思いたい。
生と死の境目で、人間はどのような行為をするかわからない。どのような行為をしようとも、そのことによって変化する精神は、それを忠実に見つめれば、それぞれに美しい。
ホロコーストからは飛躍するが、たとえば『罪と罰』の主役の青年。彼は優秀な人間は役に立たない人間を殺してもいい、と思い老婆を殺害する。彼の行為はけっして肯定できるものではない。その行為から破綻して行く彼の精神も肯定できるものではない。
それでも私は主人公の精神に魅せられ、ひきずられてゆく。その苦悩、破壊して行く精神には真実があるからだ。そしてそこに真実があるからこそ、それは「美しい」のだ。私は彼の殺人という行為は肯定しない。しかし、その破綻して行くと精神の過程は「美しい」と思う。
それに類似した「美しい」精神を生きた多くの人々がいたはずである。
そうした苦悩を生きた人々の人生をこそ、私は「美しい」と呼んで、共鳴したい気がする。
*
前回、感想を書いたときは、そこまで考えなかったが、そうした思いがどこかにあったから、私はこの作品に★1個をつけたのだと思う。
panchan world
Movie index(映画採点簿の採録)