カミングスは作曲家である CUMMINGS IST
DER KOMPONIST
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Otto Klemperer (1885ブレスラウ-1973チューリヒ)

    


指揮者としてのオットー・クレンペラーについては、特段ご紹介の必要はないでしょう。さて、私自身は、フィルハーモニアo.を振ったマーラーの7番の演奏を好んで聴いておりますが、このCDに限らず彼の振るマーラーの作品のCD解説には、必ずと言っていい程、彼とマーラーの出会いの場面で、マーラーがクレンペラーにこう語りかけているシーンが描かれています。


「作曲をしてますよ、見かけでわかるんです」



では、作曲家としてのクレンペラーはどのような作品を残したのでしょうか?

作品に行く前に、作曲家としてのクレンペラーが自作の運命についてどのように感じていたかに振れておきましょう。「指揮者の本懐」(春秋社)の最後の「オペラ」という項目に自作の「目的地」に言及する中で、若干は知られていることに誇らしさを感じつつ、初演の見込みがないことへの無念さが窺われます。
「私のオペラ<目的地>について、いくらか(十分ではないが)あなたに知っていただきたく思います。(中略)総譜は私の仕事机の中にしまわれており、虚しくゴドーを待っています。(筆者注:「目的地」の中から編曲した「メリーワルツ」について)著作権料が入ってくるところからみて、ときどきラジオで放送されており、ある程度人気はあるように思われます。 ともあれ、(残念ながら)これ以上申し上げるのはやめておきましょう。誰か一人でもこのオペラに関心を持ってくれたということが、あなたの文章からわかっただけで、とても嬉しいのです」

ヘイワースによる「クレンペラーとの対話」の巻末には作品目録があり、オペラ(「目的地」、「ユダ」)、多数の歌曲、ミサ・サクラ、6曲の交響曲、9曲の弦楽四重奏曲がのせてあります。ただ、楽譜について入手可能なのは、ペータースから出版されている交響曲第2番程度(交響曲第1番の楽譜もペータースから出版されていると「対話」の中では述べられていますが、現在はレンタル譜の扱い)という状況のため、彼以外の人間が取り上げた作品は、上記の「メリー・ワルツ」程度、これも私の知る限りでは、ストコフスキーが取り上げた程度しかないようです(日本クラウン CRCB-6017)。

しかし、完全な形で、広く一般の聴衆にパブリックな場で聞かれ、さらには、彼は何を思ったのでしょうか、演奏会の前に楽譜を作曲家や指揮者に送りつけ広く意見を求めた作品もあります。それは交響曲第1番です。

交響曲第1番
作曲:1961年春
初演:1961年6月22日 アムステルダム・コンセルトヘボウ
指揮:作曲家自身
演奏:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

CD:MEMORIES HR4248/49 (MONO) 初演時の録音(多分海賊盤)

1楽章:Einleitung - Allegro (9分51秒)
2楽章:Variationen (8分15秒)




初演時の批評家、聴衆は相当戸惑い、おざなりの、巨匠に対する敬愛の念のみからの反応ですませたようです。

戦前のクロル劇場時代のクレンペラーならいざ知らず、戦後、フィルハーモニアによるベートーヴェンやブラームスで圧倒的感銘を聴衆に与えていた齢75歳のドイツ音楽の「巨匠」が、無骨で攻撃的で素っ頓狂、ニューヨーク・タイムズの批評家ハロルド・ショーンバーグに「アイヴスのような」と言わせしめた「ラ・マルセイズ」の突然の乱入もある、2楽章から構成された30年前のプロコフィエフやヒンデミットもどきの作品を書くとは思ってもいなかったでしょう(例えば、いきなり朝比奈隆やギュンター・ヴァントが60年代のクセナキスやシュトックハウゼンのような作品を書いたら、彼のファンは受け入れるでしょうか?)。

彼は相当自信があったのか、1962年には「指揮者」として圧倒的な人気を誇っていたロンドンでも再度この作品を取り上げます。その上、事前に在英の作曲家や指揮者にスコアを送りつけて意見を求めました。そしてこの「不幸のスコア」を受け取った一人にベンジャミン・ブリテンがいました。

少し長いのですがブリテンからクレンペラーへの返事を引用してみましょう。
  (出典:"Otto Klemperer his life and times." Peter Heyworth PP.297,298)



I must warn you... that being a composer myself, I have perhaps rather narrow views of contemporary music! We all have to face the same problems today, and each of us, rightly or wrongly, feels that we are solving them in the only right way! That may make my comments rather narrow - minded, and not so interesting to you. And there is another great difficulty: your score is very clearly, but rather inaccurately, written, and I am not always sure what you mean...My great aim as a composer is to find exactly the right notes to say what I have to say...I feel that your ideas are often very good...But, dear Doctor, I am not always so sure that the notes you have chosen are always the exactly right ones to express what is so clearly in your mind.


苦心の跡のうかがえる返事です。因みにロンドン初演時のロンドン・タイムズの批評は作品に対して完全に×でした。

CDはとても音が悪いのですが、交響曲の第1楽章は、マーラーの交響曲第1番の4楽章再現部の冒頭を思い出させる重苦しい序章から始まり、ギクシャクとしたテーマーが金管楽器と弦楽器で数回変容された後(クロッケンシュピールが後ろで鳴っている)、プロコフィエフ(あるいはロシア・アヴァンギャルド)を思い起こさせる響き・旋律あるいは若いヒンデミットもどきの表現主義的な響きが、突然の中断を交えて、突拍子もなくくるくると、取り止めもなく交錯して行きます。

第2楽章は、希望を抱かせるようなテーマの変奏曲で、響きも含めてプロコフィエフの交響曲第2番のような作品です。変奏には不気味で空虚なワルツもあれば、(いびつだけど)コラールのような楽想も聴かれますが、特筆すべきは、上記のシュトッケンシュミットの言にある「アイヴスのような」ラ・マルセイユの闖入が、第2楽章5分過ぎに、ミリタリ・マーチ的な楽想と責めぎあいながら、いきなり始まります。そして、このまま盛り上がって大爆発するかと思いきや、またもや楽想が急変し、しばらくするとワーグナー的な静かな響きの海に第2楽章冒頭のテーマが奏でられて静かに終わってしまいます(このコーダはマーラーの10番第5楽章コーダあるいは、ショスタコーヴィッチの交響曲第7番の1楽章のエンディングを意識したような感じ)。

なお、彼は周囲の困惑をものともせずに交響曲を作曲し続け、あまつさえ交響曲2番はEMIに録音させてしまいました。本当に偉大な巨匠です