カミングスは作曲家である CUMMINGS IST
DER KOMPONIST
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Jose'  Serebrier (b.1938 モンテヴィデオ)

    


ホセ・セレブリエール、他のカミングス達と違って日本では全くと言っていい程に知られていないと思われる彼を取り上げたのは、彼がストコフスキーの助手としてアイヴスの交響曲第4番の初演に立ち会ったばかりではなく、彼自身もロンドン・フィルハーモニーを指揮してアイヴスの交響曲第4番を録音しているなど、私にとってはなじみの指揮者だというそれだけの理由です。ただし、ここではアイヴスの4番をはじめとする彼の演奏についてではなく、彼自身の作品、とりわけ交響曲第2番に注目しようと思っています。というのも作品よりもその成立史が面白いからです。

まず、あまり知られていないセレブリエールの経歴から紹介しておきましょう。それは幾つもの驚きがあるものでした。

まず、彼は名前や出身地、容姿から南米スペイン系の人のようなのですが、解説書が正しければ何と両親はロシア人とポーランド人だそうです。批評家の中には民族や出身国が全てのようなことを言う人がいますが、そういった人はこの事実をどのように受け止めるのでしょうか。

また、彼は極めて幼い頃から音楽的才能を発揮した、オリヴァー・ナッセン真っ青の早熟の天才少年であったようです。10歳で作品1の無伴奏ヴァイオリン・ソナタを作曲し、11歳の時に指揮者デビュー。High School(高校生というよりは中学生の頃でしょう)にはウルグアイ初の青少年オーケストラを組織して、全国を100回以上公演して回り、15歳でウルグアイの音楽院を卒業。同時に、同国唯一のプロのオーケストラを指揮する機会を得んがために作曲賞に応募して堂々優勝、といくらウルグアイが小国であっても殆ど漫画的というか彼を金日成に置き換えても通用しそうな経歴の持ち主なのでした。因みに、作曲賞のための作品、「ファウスト伝説」序曲は応募締め切り2週間前から作曲に取り掛かり、応募作品提出のためのタクシーの中で完成させたという、まるでビル・ゲイツがまだ出来てもいないベーシックをIBMに買ってもらい、IBMに持ち込む飛行機の中でようやく完成させた話を髣髴とさせる逸話もあります。

これだけの伝説的とも言える音楽的才能をそのままウルグアイ政府・音楽界がほっとく訳はなく、彼に米国留学の道が開けたのでした。まず1956、57年にカーティス音楽院で作曲を学ぶための奨学金を得て、同校にてアーロン・コープランドに作曲を学びます。1956年にはクーセヴィツキー基金賞を貰い、さらに17歳で作曲した交響曲第1番に対しても別の賞を貰います。1957年、58年にはグッゲンハイム財団からの奨学金を貰い、さらに1960年にミネアポリス大学でドラティの奨学金を貰いっています。後に彼は、「大学を卒業後、(奨学金がないので)どうしたものかと思った」と述懐しています。

ミネアポリス大学時代、彼はわずか20歳にしてシカゴのさる女性から初めて作品の委嘱を受け、彼自身の言葉でいえば、最も野心的な作品である交響曲第2番を作曲しました。因みに、彼に委嘱した女性はピアニストのボレットとも面識があり、セレブリエールも彼を通じて彼女と知り合ったのですけど、彼女はリストに関する映画のスポンサーになると、そのピアノ演奏シーンの音をボレットの演奏したものにさせたとのことです。もっとも、ボレット自身は、リヒテルのように映画には出演せず(彼はまさにリスト役)、ピアノの音源だけを提供したのですが、完成した映画は絶対みなかったとのことです。ただ、この映画のおかげか、ボレットはコンサートで生活する世界に戻っていったとセレブリエールは書いています。

ここでセレブリエールに奨学金を与えて大学で勉強させていたドラティがこの女性の存在を彼から知ることになりました。彼は、直ちに彼女と親交を結んだ挙句に、彼のミネアポリス時代最後のレコードである彼自身の交響曲(第一番)の録音費用を出してもらうことに成功したのでした。果たしてマーキュリーのレコードにそこまで書いてあるのか知りませんが、ドラティも必死だったのでしょう、というのもドラティ自身もカミングスの一人でしたが、セレブリエールによると誰も自分の作品を演奏してくれないことを嘆いていたようです。そんな彼を見かねてか、セレブリエールはミネアポリスで持ち前の行動力を生かしてドラティの打楽器と合唱のための「ミサ・ブレヴィス」を演奏してあげたこともあるということです。因みに、セレブリエールは彼の作曲家としての才能を、「平均以上」と評価しているようですが、これは受け止め方が難しい言葉です。

1960年、20歳になったセレブリエールのもとに、交響曲第2番をワシントンのナショナル交響楽団で指揮をしないかという申し込みが来たのでした。勿論、彼は受諾します。しかし、どこの新聞にも情け容赦のない大批評家がいまして、ワシントン・ポストでのセレブリエールの作品への評価は手厳しいものでした。批評家曰く、"a remarkable show of modesty and fallibility"

しかし、こうした批評にも関わらず彼の作品を録音しようという団体が現れました、ケンタッキー州のルイスヴィル交響楽団です。ただし、条件がありました。1961年当時のLPには作品が長すぎるので2楽章をカットしてくれという、今ではちょっと考えられない注文ですが、なんとセレブリエールはこれに応じたのでした。ただカットに加えて、この楽団自身も演奏に相当注力したこともあり、地元の批評家も聴衆も作品に大喜びだったようです。その様は新聞のヘッドラインにこう書かれるくらいでした。

"Louisville is finally given a contemporary work that audiences can embrace and enjoy."

すでにこの曲を聞いている私には、ルイスヴィルの人はそれまでどんな音楽を聴いてきたのか、そもそも彼らの言う同時代の音楽とはどんなものだったのだろうかと色々な思いがよぎる言葉です。

しかし、ルイスヴィルだけが彼に注目していたのではなかったのです、何と大指揮者ストコフスキーも彼に着目していたのでした。実はストコフスキーは、1957年にアイヴスの交響曲第4番をヒューストン交響楽団で初演しようと考えていたらしいのですが、まだまだ楽譜の解読や解釈に時間が必要なため、別の「アッ!と驚く」作品を探していた時、カーティス音楽院で学んでいた若干17歳のセレブリエール作曲による交響曲第1番に出会い、何とヒューストンで同年に初演したのでした。さらに、1960年にはアメリカ交響楽団の副指揮者としてセレブリエールを指名しています。また、よほど彼の才能に惚れ込んだのでしょう、1962年にセレブリエールの別の曲を演奏し、1963年のシーズン開幕曲に交響曲第2番からカットされた第2楽章、葬送行進曲を取り上げたのでした。ただし、ストコフスキーは「葬送行進曲」という表題がお好みではなかったので、セレブリエールは、新しい終結部と名前、"Poema Elegiaco"を与え、以後、以後独立した作品として取り扱われるようになりました

その後のセレブリエールですが、1968〜70年にはジョージ・セルによってクリーヴランド交響楽団のComposer-in -Residenceに指名されました(P.ブーレーズはどんな気分だったのでしょうかねえ)。この間にハープ協奏曲を書いているそうです。また、ゲーリー・カーの依頼でコントラバス協奏曲も作曲し二人で世界中を廻ってもいるようです。面白いところでは、「打楽器のための交響曲」をジョン・エリオット・ガーディナーが録音しているそうですが、私はまだ実物にお目にかかったことがありません。どなたか、聞かれた方は感想をメールで教えていただきたいものです。

それでは、天才少年音楽家にして幾多の伝説に彩られたセレブリエールの事実上の出世作、交響曲第2番は一体どんな曲なのでしょうか、簡単な紹介。


交響曲第2番(Partita)
作曲:1958年
初演:1960年11月8日、
           ワシントン D.A.R.Constitution Hall
指揮:作曲家自身
演奏:ナショナル交響楽団


CD:REFERENCE RECORDS RR-90CD

1楽章:Prelude  (8分16秒)
2楽章:Funeral March (8分53秒)
3楽章:Interlude(3分28秒)
4楽章:Fugue(7分49秒)




第1楽章は、ミヨーやヴィラ−ロボスで聞き慣れた南米のリズムとカラーで彩られ、ちょっとミニマルなところもあって、1958年当時の田舎町やまだ欧州の同時代の音楽が本格的に流入していない時代であることを別にしてもちょっと斬新に聞こえたことでしょう。
第2楽章は、作曲家自身の解説では第1楽章と対照的にスラヴ風の重々しさがあると述べていますが、グランカッサが雷鳴のように活躍して、ベルリオーズやヴェルディのレクイエムみたいな感じで、CDの録音のよさが伝わってきます。
第3楽章は、軽めのリズミカルでやはりちょっとミニマル音楽。
第4楽章はフーガと書かれていますが、コンガの導入やラテンのリズムが入ってきて、フーガという言葉から受ける印象とはかなりかけ離れたムーディーな音楽です。

さてさて、ワシントンの批評家が正しかったのかルイスヴィスの人々の感性がよかったのかはなんとも言えません、是非、経歴はナッセンかレヴィナスかという程の人物の作品をご自分でご確認してください。