遠いコンサート・ホールの彼方へ
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Claude Debussy

Pelleas et Melisande


指揮:Michael Gielen

演出:Ruth Berghaus

美術・衣装:Hartmut Meyer

演奏:ベルリン州立歌劇場管弦楽団

Arkel : Kwangchul Youn

Genevieve : Barbara Bornemann

Pelleas : Roman Trekel

Golaud : Hanno Muller-Brachmann

Melisande : Rinat Shaham

Yniold : Frederic Jost

Arzt /Hirt : Yi Yang

2003年10月25日(土) 午後7時 ベルリン州立歌劇場 ウンター・デン・リンデン



良く分からん舞台

今回の公演、ギーレンとベルクハウスの名前がポスターに大きく掲げられ、それが売り物の用である。プレミエは1991年3月17日。本日が24回目の公演。ところが、このベルクハウスの演出を私はさっぱり理解できず。ベルクハウスは「髪」に拘っていたようだが、それが何を意味しているのか?そもそも原作すら読んだことないし。

まず、メリザンドの髪はとても短い、ショートカットであり、ズラである。当たり前じゃないかと言われそうだが、地の毛の上に頭の前半分が禿げたズラを被っており、その上にショートカットのズラを被っている。これを脱がそうとするゴローとメリザンドはよくもめる。有名な塔の上から髪を垂らして、ペレアスが名残惜しむシーンをどうするのかと思ったら、塔ではなく、ただの窓から弓なりに体ごと出しており、その窓の下にペレアスがいるという構図。ちっとも幻想的でない。

それとは別に気になったのは、アルケル王もメリザンドに対して欲望をむき出しにする演出であったこと。メリザンドはペレアスを愛している一方で、ゴローともアルケル王とも交わってしまう(「私はここでは不幸です」という歌の最中にアルケル王との絡みがあり、その後でゴローに見咎められた王は胸座を掴まれる)。メリザンドが強制されているようには思えないし、何を意味しているのかよく分からない。また、最後の幕、前屈みで両腕を同時に前に振り出しながらゴローは夢遊病者というか動物園の熊のように歩き回り(失笑があった)、舞台上の溝に横たわるメリザンドは起き上がるも赤ん坊の受け取りを拒絶する。王や医師、メリザンド、ゴローの点でバラバラな会話が続いた挙句に、背景に設定された巨大な階段をメリザンドはゆっくり上っていく。同時に舞台上には尼さんのような格好をした女性たちが椅子を持ってぞろぞろ現れて座り、幕。夢落ちでないのは救いであるが、じゃあ一体全体何だったのだろうかと思うのであった。これが象徴劇の世界?

さて、音楽。私はドビュッシーを殆ど聞かないことはご承知かもしれないが、ご多分に漏れず、「ペレアスとメリザンド」にしてもブーレーズの映像(WNOによる)とハイティンク指揮フランス放送o.のライヴ、これもフォン・オッターが歌っているからという理由だけで購入したもの程度しか聞いていない。それすら真面目に聞いている訳ではない。だが、明らかにこの二人とギーレンの出す音が違うくらいは分かった。音が非常に明瞭、太い線で隅から隅まできちんと書き上げた楷書のような仕上がり。その分、ここにはこんな旋律があったのかとか、伴奏はこうだったのかという発見はあった。歌手の歌唱にしても軽やかで、儚げなところが全くない。主役を歌ったシャハムは、フォン・オッターの密やかな歌いっぷりのメリザンドと比較すると、健康的な歌い方で、歌詞がはっきりと聞こえる。演出とあいまって最終幕でメリザンドが死ぬとはとても思えない演奏・歌唱であった。ゴロー役のミュラー・ブラハマンは口の中で響きが篭ることもあったが、概ねよい歌唱だったのでは、と思うのだが、ドビュッシー聞きが聞けば別の感想を抱くであろう。主役二人に並んで盛大な拍手を貰ったのが、Yniold役の Frederic Jost。児童合唱団からの抜擢で、多分マイクを使っているのだろうが、一番声が大きかった。

指揮者ギーレンへの拍手はそれはそれは盛大で、彼は何度も舞台に呼び出されたが、舞台上のお椀のような舞台を上り下りしないと袖と舞台を行き来できず、極めて危なっかしい足取りでヒヤヒヤしたのであった。


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