"Danbury, Conn., 1874〜1954"
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Translations Before Essays


Essays Before A Sonata

1.プロローグ
権威筋であれ、門外漢であれ、音楽(お好みならば音響でもよいだろう)について、音楽以外の事物について常に用いられる、物質的、倫理的あるいは知的な事柄を物語ることは何と正当化から程遠いものなのだろうか。音楽はどこまで超越し、また、どこまで理性的あるいは芸術的であるのと同程度に正しくあり続けられるだろうか?主観的あるいは客観的意識の内にある事柄を表現する作曲家の力のによってのみ制限される事柄なのだろうか?あるいは作曲家の何らかの限界によってのみ制限されるものだろうか?客観的な深い思考力の最高段階にある天才によって創られる響きを通じることで、その響きは文字通り蔦の生い茂った石壁を表現し得るのだろうか、あるいは何もない石壁を表現し得るのだろうか?これは作曲家の側の催眠行為の至らなさによって成され得るものなのだろうか、あるいは聴衆側の配慮の無さによるものなのだろうか。音楽の究極的な物質化は誰にでも強力にアピールするか?ユーモアのセンスの欠けた人々、あるいは、むしろ幾分ユーモアのセンスを持った人々を除いた誰にでもアピールするのか?あるいは、多分、ハーバート・スペンサーのように、扇情的な要素(経験的な心理学において非常に多くを耳にする扇情的な事柄)は音楽における真に愉快な事象であること、そしてまた、精神に対してそれに干渉することを許すべきではないという理論によって弁明する人々を除いてアピールするのか?標題音楽の成功は音楽それ自体ではなく標題それ自体により依存しているのか?もしそうならば、音楽の効用は何であろうか?もしそうでないならば、標題の効用は何であろうか?音楽は感情の言語であり、それ以上ではないという理論を受け入れる聴衆の意思に、標題音楽のアピールは依存していないと言えるのか?あるいは逆に、この理論は音楽を標題に限定することに陥り易くはないと言えるか?─音楽それ自体に対し、また健全な発展に対して有害で、お決まりの標題音楽という限定は、感覚や、肉体的な情動を超えた何事かを把握する能力に対して有害である。これは、情動によって意味されることや、あるいは、上記で用いられたような言葉が、より深い感覚、これはある経験、知性ある人の表現における経験、多分に精神的な性質によって影響された感覚において意味していること、それよりもむしろ、より「何かを現した」という表現そのものに関係していることに依存している。Sturt教授がその著書「芸術と個性の哲学」で述べているように、 「我々が情動の単なる表現に近づけば近づくほど、休日を約束されている少年達の馬鹿げた行動のように、我々は芸術から遠ざかる」。

他方、全ての音楽は標題音楽ではないというのか?いわゆる純粋音楽はそのエッセンスを現していないというのか?標題音楽はn乗だけ拡大されるのか、あるいは-n乗だけ縮小されるのか?主観的な感情と客観的なそれとのどこに線引きがなされるのか?それぞれがそれとなることを知る時よりも、それぞれが何であるかを知る方がより易しい。「芸術の分離」理論、芸術は生そのものではなく、その反映でしかない、あるいは。芸術は生にとって必須のものではないが、逆に生は芸術にっとて必須であるというこの理論は我々の理解に役立たない。そしてまた、ソローもまた助けてくれない。彼は生は芸術(art)ではなく、芸術作品(an art)だと言っている、勿論artとan artとは異なる。トルストイは彼自身にも我々にもさらに役に立たない、なぜならば彼はさらに削除するからだ。彼の芸術の定義からは、背中に蹴りを入れることが芸術作品であり、ベートーヴェンの交響曲第9番は芸術作品ではないという事以上のことは学べないだろう。経験は、ある者から他の者へと伝承される。アベルはこのことを知っていた。そして今や我々もそのことを知っている。しかし、どこに橋が架けられるのであろうか?道の果て?あるいはヴィジョンの果てか?それはすべて一つの橋なのか?大きな隔たりが無い故に橋もないのか?仮に作曲家がある作品を創り上げたとしよう、例えば大いなる自己犠牲を目撃したことによってインスパイアされたと意識しながら創った、また別の作品はその作曲家の友人達の性格の内に見出した高貴さの特徴を見ることで、さらに別の作品は月光のもとでの山中の湖の光景にインスパイアされて作曲したとしよう。最初の二つのケースは、霊感の点からみて、ごく自然に主観的なものと言えそうだろう、そして最後のケースは客観的なようである。しかし、可能性としては、全てにおいて双方の質に関する何かがある。最初のケースでは、その記憶が作曲家が作曲している間に意識しているよりも遥かに客観的な情動を引き越すほど直裁で劇的な物理的な反応であるかもしれない。第3のケースでも、潜在的なものにもかかわらず、ある思考や感情、多分に深い宗教的あるいは霊的自然の曖昧な記憶によって、音楽は深く影響されているかもしれない。この宗教的なあるいは霊的自然は、突然作曲家にその光景の美を理解せしめ、そして最初の感覚的喜びを圧倒せしめただろう、多分にこれはソローが経験し、「ウォールデン」で述べている不滅そのものの確信のような感覚であろう。

「ああ、僕はこうした牧草地に入り込んだものだ...荒くれた峡谷や森がとても純粋で明るい光に浸された時に、その光は死者さえも起こしかねなかっただろう、もし誰かが言ったように彼らが墓場で眠っているとするならば。これ以上の不滅の証拠は必要ない。」

熱狂はこの感覚を強めるに違いない、しかし、芸術的努力をインスパイアするまさにそのことは簡単には決められず、分類もされない。「インスパイアする」という単語は、ここでは効果ではなく起因の意味で用いられている。ある批評家は、ある楽章はインスパイアのされていないと述べるかもしれない。しかし、これは趣味の問題かもしれない。多分、最もインスパイアされた音楽は、その批評家には、少なくともそう聞こえているのだ。真の霊感は真の表現を欠くかもしれない、仮に真の表現とは何であるかを明確に定義付けし得る人がいるとして、また、仮に霊感が真の表現を生み出すのに十分に真ではないとして、真の表現は全くもって霊感ではないと仮定されない限りは。


再び仮定しよう。同じ作曲家が別の機会に上記3作品に匹敵する価値を持つ一つの作品を創り挙げたが、推論に従えば、彼は何によってその作品がインスパイアされたかを意識してないとなる─彼は心の内に明確なる何物も抱いておらず、また、何ら心理的な過程も知らない。当然の事ながら、何事を創造する実際の作業は彼に喜びで満たされた感情、多分に得意気な感情は与えただろう。何をもって山中の湖や友人達の性格等を置き換えるのか?何を置き換えるのか?もしそうならば、何故だ?もしそうならば、何を?あるいは事物を喜びの感情に、主として物理的な、響きや色彩、継起や関係といった喜びの感情に、公式にも非公式にも、任せてしまえば十分なのか?ある霊感が真っ白な心から生じ得るのだろうか?そう、作曲家は説明しようと試み言うのだ、私は意識していたのだ感情的な興奮を、そして美的な感覚をと。ただし彼は、それが何であるかは正確には知らない、曖昧な高揚した感覚、あるいは多分に根源的な悲しみを。これらの本能的な感覚、曖昧な直感、そして内省的な感覚の源が何であろうか?分析を試みれば試みる程、ますますそれは曖昧になっていく。これらを分析すること、そして主観的か客観的かあるいはそれかこれかと分類することは、非常に上手く分析されるかもしれないが、ただそれだけに過ぎないことを意味する。すなわち、相変わらず我々を起源から遠ざけたままにするのだ。全くもってこれらは何を意味しているのか?その背後には何があるのか?「神の声だ」とある芸術家は言う。「悪魔の声だ」と第一列目に座る男は言う。我々は人であるが故に、霊感が何ら外的な刺激、感覚や経験に関係を持たないで沸き起こり得る程に抽象的に美を感得する能力を持って生まれるのか?あるいは、上記の例に即して言えば、ある種の潜在的かつ瞬間的な現在の構成されたイメージ、これまで作曲が見てきた全ての湖と、一つの人格に統合された後の友人たちの多くの高貴な性格を伴った色調が混ぜ合わされたイメージが存在するのか?すべての霊的イメージ、状況、情態、なんと呼んでも構わないが、それらは、支配的部分の故に、もし原因の故ではないならば、人生や社会関係の実際の経験を有するのか?少なくともそれらが有してない、少なくとも常には有していないと考えることは、救いであるかもしれない。しかし我々が、天使でも鳥でもなくほかならぬ人によって創造され聴かれた音楽を考えることを試みている際には、例え潜在的イメージであれ人として経験と無縁であることを仮定することは難しくなる。意識などを生み出す潜在意識の背後には何かがある。しかし、これらの所謂イメージの要素や起源が何であれ、それらが深い情動を巻き上げそしてその表現を促すことは我々が知っている不可知の領域である。それらはしばしば意識と潜在意識の境界をまだ越えていない何事かを喚起する─芸術的直感(上手く名付けられている。しかし、目的と原因が不明である)。ここに標題がある!─意識的であれ潜在意識的であれ、それはどうでも良いことなのである。何故に、意識の花園を通ってその源に流れ抜ける全ての水流を追いかけるのだ、源流にたどり着けば新たな源流を求めるという問題を惹起するのみであるのに?多分に、エマソンは、その著作"The Rhodora"において、説明を試みることなく回答している。

もし眼が見るのに役立ったならば、
その時美はそれ自身の存在の弁明である
何故に汝はそこに存在するのか、薔薇のライヴァルよ!
私は決して尋ねること考えなかった、私は決して知らなかった。
しかし、私の単純な無知においては、
私をここにもたらした全く同一の力が汝をもたらしたのだ


多分、Sturtは代用品で回答している。「今や我々は、厳密な意味において、我々の自然の第一の機能の源を辿れないとのと同様に芸術家の直感を説明することは出来ない。しかしもし、私が信ずるように、文明化が主として非利己的な人間的な関心の類、我々はそれを知識と道徳と呼んでいるが、その類に見出せるならば、我々が並行して関心を持つべき事柄、それは芸術と呼ばれるもの、知識と道徳に極めて近しい存在であり、そしてまたそれらに力強く助けを与えている事柄の理解はより容易である。道徳的な正しさ、知的な力、高い活力と力強さは、直感によって是とされるべきことも理解される」。これは問題を目に見える基礎に卑小化する、あるいは蒸し返すものである、すなわち、芸術的直感を、「道徳的正しさ」や「高い活力」等々あるいは他の人間的な傾向、例えば心理的、倫理的あるいは精神的な事柄を是としたり、反映したり、あるいは是とするように反映したりするように努力する音楽の響きに言い換えることである。


音楽にはこれ以上のことが出来るのか?音楽はこれをし得るのか?そして、もしそうならば、誰が、そして何がその失敗と成功の程度を決めるのか?作曲家?演奏家(もし存在するならば)?あるいは聴衆か?一回でも聞かれたらか?あるいは一世紀に亘って聴かれたからか?そしてもし成功しなければ、あるいはもし失敗しなければ、それはどうでもよいことではないか?作曲家が傷つき易いと仮定しているので、失敗の怖れは、作曲家が誤った理解に対する反撃に乗り出したり、ある誤った理解の背後に隠れる必要があるという意図から彼を遠ざける必要はない。ある主題、、作曲家が「道徳的な正しさ」と称していることが、その友人には「高い活力」に聞こえるかもしれないし、作曲の敵には「衰弱した精神」の噴出に聞こえるかもしれないし、単に「澱んだため池」のように聞こえるかもしれない。表現とは大いに述語に関した問題であり、述語は皆のものである。「神」という言葉の意味は、何十億もの魂があれば、それだけの解釈が存在するだろう。


すべてを証明しようと試みる唯名論と実存論にはモラルがある。これは以下のような具合である。例えどんなに誠実で信頼の置ける人々がお互いの思考の傾向や習慣を知ろうとしたり、推測したとしても、その結果は全ての事柄が言われないままにあるという気分を残すだけである、なぜならば彼らが同じ言葉を用いたとしてもお互いを知るには彼らは無能だからである。彼らは一つの説明から次の説明へと動き続ける、しかし事物は常に彼らが説明し始めた時と同じ場所にあり続ける、なぜならば間違った仮定を彼らが置いているからである。しかし我々は信じたい、音楽が文字言語の類似を超えた存在であることを、そして、我々の生きている間ではないが、今や音楽が信じられないほど可能性を展開する時が、すなわち音楽が、全ての人類にとってその高さと深さが共通になるほど超越した言語となる時が来つつあることを。

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