道楽者の成り行き
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4.ROTER OKTOBERに捧げる






 2003年10月31日

ベルリン 晴れ ただし強風


例のごとく10時に起床。何処へ行こうかと考え、フランクフルトに行くことにする、といっても有名なマイン川沿いの方ではなく、限りなく無名のオーデル川沿いの方である。池内紀の「ドイツ街歩き」(中公新書)の最初のほうで紹介されているように、この町は、ハンザ同盟時代に栄え、そしてハンザ同盟の没落と共に眠りに入った。次に歴史にたたき起こされるのは、1945年の第三帝国の敗北、そして「オーデル・ナイセ線」の設定によってである。有名な方のフランクフルトがマイン川の両岸に町が展開しているように、こちらも川の両岸に町があった、しかし東ドイツとポーランドの国境が、ソヴィエトの都合で大きく変更され、オーデル川とナイセ川に沿って設定されると、街もまた分割されてしまった。以来半世紀の年月が経つ。ちなみに今年はフンクフルト・アム・オーデル市制750年の都市だそうだ。

ベルリンのツォー駅から1時間20分ほど地域急行に揺られていくと、この町に着く。途中には大きな町はなく、一面森か畑だけ。ベルリンがかつてはともかく現在はドイツの中でも東にかなり偏った位置にあることが如実に分かる(例えばドイツ版新幹線ICEに乗ってすらハンブルクまで2時間半、ハノーファーも2時間、フランクフルトやケルンまでは4、5時間かかる)。フランクフルト・アム・オーデルの駅は新築になったばかりの建物であった。ドイツの他の都市同様に、駅は町外れにあり、そこから歩いて10分ほどのところに市の中心部がある。簡単に行けるなと思ったら、途中で曲がる道を間違えて変な所を歩いてしまい、運良く出た大通りが「ローザ・ルクセンブルク通り」。駅前の地図にはこの名前で書かれていたが、どうせ地図が古いので新しい通り名になっているだろうと思ったら、そのまま残っていた。因みに市の中心部を通るメインストリートは「カール・マルクス通り」、どこかにきっと「カール・リープクネヒト小路」とか「スパルタクス団広場」とか「テーレマン門」とかあるに違いない。それはともかく、この「ローザ・ルクセンブルク通り」、まっすぐオーデル川に向かい、当市から架かる橋はそこ一本だけであり、その向こうはポーランド。飛行機や列車で国境を越えたことはあるが歩いてはない、その上ポーランドはまだ行ったことが無い、よしこれは橋を渡ってみることにしようと歩いて川に向かう。

私以外にもぞろぞろ国境を歩いて渡る人がいて、ドイツのパスポートとは別物のカードだけを皆は提示してさっさと通過している。パスポートを提示したのは私だけ。ドイツの係官がちらと見た後、さっさと橋に向かって歩こうとしたら、「ストップ」と言われた。壁一つでポーランドのパス・コントロール。国境線は川の真ん中のはずで、さらにそこは土手の上なのでドイツ領のはずなのだが、と抗議する訳はなく、パスポートを渡したら判子を押されてお終いであった。何故かピンク色のインキであった。

国境線の川とて何があるわけでなく、川の中州ではこの寒いのに釣りをする人、道路にはドイツのタクシーが行きかい、買い物の行き帰りのドイツ人、物乞いをするポーランド人などが橋の上にいた。そして橋を渡り終えると、そこにはLに斜め線が入った文字が並ぶポーランド領。ドイツ領であった頃の建物や町並みがそのまま残っているようで文字や喋っている言葉を除くとドイツとそう変わらない(さらにポーランド語とドイツ語が併記されている)。

お腹が減ったので昼食でもと思った時、そうだユーロが使えないんだということに気付く。通貨価値が分からないので、まずそれを探ってから両替をしようとスーパーに入る。何となく、そのままユーロ表記にしてもおかしくない数字が並んでいるが、単位はズロチ。複数の両替商で交換レートで調べると、大体1ユーロ=4.5ズロチ、同じ物が川一本越えるだけで約半分の値段になる!とりあえず20ユーロ=90ズロチだけ交換して、レストランに向かう。(一応カードが使えると書かれていたが不安だったのでキャッシュで払うことにした)。


このレストランで久しぶりに英語が全く通じない世界に出会った。そして、レストラン中の視線を浴びながらの食事も久方ぶりであった。それはそうであろう、ポーランドの田舎の小さな町、来る外国人は川向こうのドイツ人ばかり、そのドイツ人の町にしたって観光名所も無い田舎でしかなく、逆にポーランド人以外の外国人が来るわけも無い。そんな町に外国人、それも東洋人がただ一人である。そもそも何しに来たのだろうと思うだろう。

英語は通じないが、フランス語は通じる気配があった、最初に案内したウィエイトレスはフランス語で尋ねてきた(ヴェトナム人だと思ったのかな?)。ショパンやキュリー夫人がパリを目指したのもむべなるかなという感慨が沸き起こったが、メニューが分からないことに変りは無い。ドイツ語の乏しい知識を総動員して、ご当地ビールとビーツのスープ、このレストランというか川の名前を冠した「オデラ(オーデルのポーランド語読み)シュニッツェル」、それにコーヒーという真に無難な選択。結構な量と、まあまあの味で、チップを含めて30ズロチ、7ユーロ強、5ポンド弱、1000円弱。理念としては分かっていても、国境線一つでこれほど物価水準が変るのは不思議である。と同時にロンドンの物価の高さにげんなりも来たのだが。5ポンド弱ではろくでもないサンドイッチぐらいしか買えない(あれは豚の餌である)。

結局、60ズロチも残ってしまい、再びユーロに戻して橋を渡ってドイツに戻る。買出しに出たドイツ人たちの長い列が橋の上に出来ていたが、程なく両国のパスコントロールを通過。


国境の橋から当初目指した町のインフォメーション・センターに向かう。町は死んだように静かである(人はいるのに)。金曜日の昼だというのにどの店も、銀行も閉まっている。ハロウィーンだからだろうか?インフォメーション・センターも閉まっていた。ふと時計をみると、実は帰りの列車の時間が迫っていて、池内氏の紹介していた市庁舎を見る暇がなかった。再びDBに乗り、気がつくとツォー駅であった。往復16ユーロなり。


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