道楽者の成り行き
ホーム


5.放蕩者の道行


2004年3月8日 ヴァイマール、エアフルト

3月8日 ドレスデン 曇り
中央駅からICEに乗りヴァイマールへ、約2時間の旅行。ICEには何回も乗ったが今回初めて知ったことがありまして、何と運転席がのぞける、さらにそこの窓から先が見える。というわけで、精神年齢は実年齢の十分の一くらいの私は先頭車両の一番前の席へ移動、飽きもせずに眺めていました。途中線路に飛び交鳥の群れに時速200キロ位で突っ込み、不気味な音が聞こえました。ただ、ドイツは終着駅型の駅舎が多いので、今回もライプチヒから先は最後尾になってしまったのには少しがっかりでした。


 いやあ、これでは居眠りどころか携帯電話も恋人にかけられず、ジュースすら飲めません。でも二人はずーっと喋りっぱなし。

 ジョイスティックで操作していました。

 ピンボケではありません。実は仕切りは偏光ガラスでして、トンネルに入るとこのように切り替わります。

 ボディーには特段影響はみられず、ただ鳥の羽だけが何が生じたかを語っているのした。ライプチヒ駅にて。


さて、ヴァイマール、19932月以来の訪問。あの時は雪が降り積もり、街中には東洋人はおらず、英語を理解できる人がおらずであった。今回はどうかと思うと、まず駅が非常に綺麗に改装されていました。さらに駅前も綺麗になっており、町全体が、晴れているせいもありましょうが、明るくなっていました。11年前に泊まったホテル・チューリンゲンも健在です。
ともかく昼食をとゲーテ博物館前の白鳥亭へ、ところが月曜日はお休み!ここで昼食を食べるために態々ヴァイマール行きを決行したのに!!月曜日は(事前に調べていましたけど)美術館・博物館は軒並み休みなのですが、白鳥亭以外のレストランや土産物屋も休んでいるところが多かったです。手が悴むほど寒い中、彷徨っているとホテル・エレファントの裏手に、バルコニーに青い立像が、良く見るとシラーとゲーテでした。では、と表に回ると、これまた黄色の立像と文字を書いたレリーフがエントランスの上のバルコニーに、誰かと思ったらトーマス・マンでした、「二人のロッテ」ではなく(これは「エミールと探偵たち」で有名なケストナー)、「ヴァイマールのロッテ」の著者(「魔の山」の著者ですよ)。この「ヴァイマールのロッテ」は、「若きヴェルテルの悩み」のヒロインのモデルとされてしまったシャルロッテ・ブフが、旦那の死後、いまや押しも押されぬ当代随一の大知識人であったゲーテとの再会をホテル・エレファントで待つ間に、彼の息子や当時のヴァマール文化、後のドイツ・ロマン派の重要な作家達も含めた人々との対話からなる小説。岩波文庫で読めます。さて、何とかいてあるかはその場では分からず。写真に収めて家で解読することにする(結局まだ解読せず)。



 
個人的には思い出深いホテル・チューリンゲン。駅前左手です。レセプションの若い女性たちは英語を喋れるようになっただろうか(自分のことは棚上げ)。

 
個人的には思い出深いホテル。駅前左手

 
観光案内に必ず載っている国民劇場正面。左上の赤い横断幕には「万国の労働者よ団結せよ」と書かれているわけはなく、ファウスト上演の告知でした。


バウハウス記念館。国民劇場前です。昔はなかったような気が。なお、本当のバウハウス跡は現在も建築学校が建てられていました(11年前)。へッセンにあるような建物だったら残っていたでしょけどねえ。今回は疲れていたので行きませんでした。

 
白鳥亭、グレーテという名前の給仕がいるかもしれません。なお、11年前に寄った時は、客が全くおらず、英語のメニューもなく、ただ「ゲーテも食べた」と読めるドイツ語を頼りに注文したら、チューリンゲン・ソーセージを焼いたものとザワークラウトが出てきました。まあ、ゲーテも喰っただろうが...。

 
ゲーテ・ハウス。11年前には再建中につきゲシュッロセンと書いてあり、今回は月曜日につきゲシュロッセンでした。フランクフルト・アム・マインの生家も含めてゲーテの家には行ったことがまだない。

 
ご覧の通り、月曜日はゲシュロッセンだよーんと表示されています。でも何で貼りなおしてあるのだろう?



ホテル・エレファント裏手。青い物が。


 
お二人でした。


 
ホテル・エレファント表。黄色い物が。



「ハインリヒでも、クラウスでも、ゴローでもありません。マンと言えばトーマス、『魔の山』のトーマスです。ところで、最近のダヴォスは景気やら政治やら形而下の話ばかりで煩いらしいねえ」


誰か翻訳して。でも1955年って死んだ年じゃなかったかな?



はて、これもマンの言葉だろうか?ルターの帝国議会での言葉かと思ったけど。



ホテル・エレファントのお隣は、実は...



大バッハが住んでおりました(家はありません)。20人近い子供のうち生き残って、それなりに作曲家として名を成した長男と次男ですけど、ヴァイマール氏も、もう少し大き目の板を用意すべきでしたかねえ、「カール」・フィリップ・エマニュエル・バッハなんですけどねえ、まあ「カール」が無くても分かりますけどね。このあとライプチヒの聖トーマス教会に大バッハはトラバーユします。



シラー・ハウスです。転居後3年ほどしか住んでいませんけど、記念館になっています。一方、気が狂った後のニーチェは10年もヴァイマールに住んでいた?のに、10年前はその家は特段記念されていませんでしたが、今はどうなっているやら(遠いので今回は行かず、当時は若かった)。


さて、ヴァイマールにいてもすることがないので、さらにものすごく寒いことから空港のあるエアフルトに向かいました。電車で20分。

駅は大工事中。何とか荷物を預けて町に出て、嘗ての城壁の後であるリンクの名前をみてちょっと驚く、「ユーリ・ガガーリン」、壁崩壊後も直していない。

観光案内書というのは何とか町の良い点を引き出そうとして書いていますが、エアフルトについてはどうみても「見るべきものは無い」ということが読み取れまして、確かに雑然とした中都市という趣。古い建物と新しい建物が、さらにどの時代のも様式的に統一されておらず雑然とした感じ。一応、エアフルトはチューリンゲン州の州都なんですけど、冴えない感じです。さて、市庁舎前まで歩いて腹が減って歩けないと思ったとき、「パガニーニ」の看板が。立派なギルド・ハウスの中にシックなレストラン。ライプチヒの駅にも支店がありました。そこで腹ごしらえをすると、一応観光名所といわれる大聖堂のドームに、正直大したことはなり。観光案内所によると「ドイツで唯一残る住居付きの橋」も、通りを歩く分には言われなければ分からないし、そもそも川が殆ど浅瀬と変わらないほど水量がなく趣がない。もっとも、コイン屋と楽譜屋を発見できました。しかし、正直、観光では二度とこないだろうなあ。時間が来たので駅前のバスターミナルに戻る。

エアフルト空港は、市内から普通バスで16分ほど、1.3ユーロで行けます。どんな寂しい空港かと思っていましたけど、意外や意外、ハンブルク・リューベック空港よりも大きく、大型ジェット機も着陸できる設備がありました。そこからライアン・エアーでスタンステッド空港に戻ました。





 「放蕩者の道行」目次へ
 「2004年3月7日 ドレスデン州立歌劇場 ストラヴィンスキー「放蕩者の道行」へ
 
 「道楽者の成り行き」へ