金色日記 Diary in Gold


1月27日(木曜日)

 『翻訳はいかにすべきか』(柳瀬尚紀著 岩波新書 2000年1月20日刊)

 実を言えば筆者(このわっちのことだってば)は、柳瀬という翻訳家があまりすきではなかった。そのダジャレが(かつての)井上順を思い出させ、なんか寒々しい気がしたからだ。しかし、筆者も夜な夜な、(誰に頼まれたわけでもない)「翻訳」に精を出す身。こういう題名の本が出たら、そりゃ、一応、目を通してみな、

 ってなもんである。が、読み進むうち、引き込まれ、感心することしきり。マイッタ。あんたはエライ!

 なんたって愛がある。翻訳という仕事への、その対象たる、たとえば、ジョイスへの。

 世間に名だたる権威も権力者も、愛には勝てないのである。

 柳瀬氏は、実践によって、新潮社のアップダイク作品『さようならウサギ』を完膚なきまでに切る。返す刀で、あの丸谷才一センセイも訳者の一人に名を連ねる、集英社版『ユリシーズ』を切る。意見の相違とか、そんな生易しいもんじゃないんだ。プロの世界は(とはいうものの、そういう態度のプロはまれである)。

 しかしまー……、『さようならウサギ』はひでェー訳のようであることが、私のような若輩モノにもよくわかる。柳瀬氏は、訳者の名誉を慮ってか、それとも、てんで相手にしてないゆえか、名前を伏せている。とあっては、こちとら勝手に調べらぁな、アップダイク『さようならウサギ』(井上謙治訳 新潮社)これだな。

 それはともかく、丸谷センセイの『ユリシーズ』までが、高校生でもわかるような英語を間違っている。

 だいたいあの丸谷ってジイサンは、そんなに英語ができるのか?と疑いたくもなる。第一日本語だって怪しいものだ。デカイのは、声(そういうウワサ)とツラだけだろう。日本の文壇ってのは、態度がでかければそれで通ってしまうようなところがあるからな(内的独白)。

 しかしこの本は、あくまで、誤訳を指摘するのを目的としたような、さもしい根性で書かれた本ではない。むしろ誤訳など誰でもあると、著者も言っている。

 つまり、これは、日本語への愛の本である。大きなツラしたいいかげんな翻訳を読まされるより、隅々まで愛に満ちた(ということは、持てるかぎりの力を尽くした)翻訳の方がはるかに読む価値があるということである。



 ゆーきやこんこん、あられやこんこん……♪



 Amazon.comが、「日頃のご愛顧に感謝をこめて」、「粗品」(とアメリカ人がいうわけないが)=「コーヒー・タンブラー」(だと。蓋付きの大きめのプラスチックカップ)を送ってきた。そのコップには、Amazon.comの創設者にしてCEOのジェフ・ベソスの好きな言葉が書かれている──。

 "If at first the idea is not absurd, then there is no hope for it"____Albert Einstein

 「はじめばかげていない考えというものは、それゆえ見込みはない」__アルバート・アインシュタイン

 しっかし、Amazonさんといい、bol.fr(読書ザッシをタダで3号送ると言って来て。すでに2号ぶん来た)さんといい、サービスがいいねぇー、外国は。それに比べて日本はねぇ……。




2月1日(火曜日)

 「内的独白」かぁー、よっしゃ、これでいったろ……。思えば、↑あの日、メチャ冷えたのに夕方外出し、しかも街はへんに人出が多く、それでウィルスを拾ってしまったようだ。そうさ、インフルエンザのね。酒もタバコものまない、持病も過去に大病の既往症もない私が、突然39,5度を越す熱に見まわれたとしたら、もうこれしかないでしょう。行きましたよ、医者へ。前に行ってたとこは、女医で、「漢方でなおす」とかが売りだったけど、なんの診察もしないうちに、いくといくなり「検尿」だし、やたら検査したがるし、薬は向いの薬局で売ってるし、やたら値段が高く、評判もよくなかったので、今度評判のよい新しくできたところに変えた。そこの先生は、ものごしていねいで、お店つーか、医院も近代的で、置いてある読み物も、ザッシなどのほかに、その日の主要各新聞(とくに日経あり)が並べてあって、なかなか知的な雰囲気で気にいったです。よく医院にありがちな、誰が履いたかワカンナイ汚いスリッパを並べてある、「日本家屋式」ではなく、フローリングの床なれど、土足ってのもいい感じだ。検査機器もいろいろ取り揃えてあるみたいで、前の女医のところみたいに、どこそこのセンターへ送るから、結果を聞きに何日後に来い、なんてことは言わない。すぐその場で、「インフルエンザの可能性がありますね。白血球をとって調べましょう」と言って、検査し、すぐに「5700と少ないですね。やはりこれはインフルエンザです」と言われた。インフルエンザは、熱が上がったり下がったりするそうな。「インフルエンザの症状を抑えるのによい薬がありますので、それを出しておきます」とのことだった。ま、抗生物質などなどいっぱい、なんだけど、症状は、目に見えて回復してきた。とくに熱は完全に下がった。けど、たとえば、抗がん剤の副作用のように(ってたとえが大げさだが)、ウィルスを殺してしまうわけだから、それによって失われるものもある……で、なんか、熱があったときは感じなかった、気持ち悪さみたいなのが多少現われたかなって感じ。……でもさ、私は近代医学を信じるな、巷じゃ、変な宗教みたいなものが流行ってるけど。第一清潔な感じがいい。不潔だと、もうそれだけで死んじゃいそう。しかもこの「クリニック」は、値段も安かった。し、ホテルの明細みたいな明細もついていた。……つーことなんだけど、いやーほんとマイッタぜ。



2月2日(水曜日)

 なんつって、出歩くと……実はまだなおってないのである。インフルエンザ・ウイルスを甘く見てもらっては困る。人を死へ追いやってしまうくらいパワーのあるウイルスだから、そんじょそこからの風邪とは違うんだ。それは、『家庭の医学辞典』(小学館だけど、非売品)にも書いてあった。あなどらず、外出を控え安静にしてるようにって。しかし、クリント・イーストウッド監督主演の『トゥルー・クライム』がもうじき終わってしまうということで出かけた。しかも博多へ。そうしたら、始まる前に急激に咳の発作が起きて、自分では止めることができず、必死にハンカチで押さえつつ、鞄の中に、ハギオさんにもらったノド飴があったので、それを口に放り込み、やっとのことで押さえたしだいである。いや、ほんとにマイッタ。なにかあるとすぐに発作を起こしてしまう人の気持ちがよくわかったよ。あれは、自然に、そうなってしまうんだ。一時は、退場しなければならないかと思ったよ。上映中、ずっと、かつての学生運動のオニーサンみたいに、ハンカチで口を押さえたままだったよ。でないと、コマかな塵が喉や気管支に侵入し、また咳が出る。マスク=布を当てていると、それが多少防げるみたいだ。……いやー、クリント・イーストウッドは、すでにジーサンの領域なのに、よくやるよ。どう見たってひ孫って感じの幼児に「ダディ」なんて呼ばせて。って、いまどきのアメリカじゃ、べつに珍しいことでもないんだろーが……。しかしこの映画は、あいかわらず、端正な、というか、ていねいに構成された、うまい映画だ。かなり昔の『12人の怒れる男』。あれを、12人じゃなくて、1人で、しかも「怒れる」じゃなくて、「イカれてる」男で、やってる感じだ。なんせ男は、アル中療養中の、女ぐせが悪い「ブンヤ」なんだから。ついに家庭は崩壊してしまうが、妻が結婚指輪を返しながら、泣きながら言う。「もう家庭も壊してしまって、世界で1人ぐらい誰かを救ったらどうなの?」と。それは、全篇に張られるさまざまな伏線のうちの、見事なひとつになっている。しかも台詞での。ほんとに、一歩間違えば、臭くなりそうなドラマを、一歩も間違えず、センスよく、おとなの味にしあげる。これはもう身についたものだろう。だからそれが全身にも溢れていて、ジーサンなのに、さまになっているんだ。これは高倉建とは大違いだ。ティム・ロビンスの『デッドマン・ウォーキング』より辛抱強く主題と取り組んでいる。音楽のセンスのよさも毎度だしね。この人の「黒人理解」には、まったく無理がない。ジェームズ・ウッズもいい味を出している。この俳優、オヤジになってよくなった。しかし、ジーサンのイーストウッドに妻を寝取られる同僚のボブ役のなんとかって俳優(たしかラリー……)、『トーマス・クラウン・アフェアー』で刑事をやっていた、そのときも言ったと思うが、タイプだ。……ってことは、結局、私は、「すてきなオヤジ」((C)島田雅彦)より、「オヤジっぽい若い男」がすきなのか、はは……。寝よ。



2月7日(月曜日)

 『Pola X』レオス・カラックス監督+業務・ドパルドュー+カテリーナ・ベルゴワ+カトリーヌ・ドヌーブ

 どーでもいいんだけど、フランス人のひとりよがりもいいかげんにしてほしい。自分だけが勝手な思い入れをしてるだけで、テーマも現代との接点がほとんどない。あたしゃ、永井荷風の小説かと思ったよ。よくこんな作品が「配給」されたと思ってしまうって、そんな作品。レオス・カラックスは、若い時の才気で話題になって、「ゴダールの再来」とか言われて、いい気になって、ついにそこから成長することができなかった。
 『ポンヌヌの恋人』から8年──って言うが、この8年は、ただのブランクでしかなかった。むしろ、エネルギーも技術も低下しただけ。これじゃあ、ジュリエット・ビノシュに捨てられてもしかたがない(実際はどうか知らんが、「捨てられた」って感じだ)。

 それになんなの? あの、カトリーヌ・ドヌーブの必然性のないヌードは。勝手に脱ぐなー!(笑)

 ただのお坊ちゃまが、超陰気な女とめぐりあって、人生観を変えるってそれだけの話なんだけど……。

 「ファム・ファタール」役のベルゴワは、クリストファー・ウォーケンを彷彿とさせて、それはそれなりに、トラウマ顔かなとは思うけど。業務・ドパルデューは、でっかいマーク・レスターって感じでさ。



2月12日(土曜日)

 『ワールド・イズ・ノット・イナフ』("The World is NOT ENOUGH___007") マイケル・アプテッド監督+ピアース・ブロスナン+ソフィー・マルソー+ロバート・カーライル

 題名の訳は、「世界は十分じゃない」じゃないよ。「世界じゃ不足さ」(「世界」をくれると言われてもね)って、そういうイミ。

 また「007」ですかぁー? と思ってみても、まだ見所たっぷりという困った映画。なんせ「世界」をまたにかけるボンドがまたにかける「世界」ってものが、どんどん広がっていくのだ。これまで、「アゼルバイジャン」とか「バクー」とかって場所が、まともに娯楽映画の舞台になったことありました? ボンドはもうそういうとこまで行っちゃうのですよ。それにやっぱり、「秘密兵器」とスーツ姿はさまになってるし。立ち姿が美しくないとボンドにはなれない。ついでに脚が長くないとね。

 でかたや、ワタシの愛するロバート・カーライルさまは、いまどきの短足男。な、せいか、なんでこんな役が来るのー?(涙)背が低いばっかりに?

 もうかたや、ロバートに寄り添うソフィー・マルソーがでかい。ので、わざと体を斜めにして立ってる。そんなに無理するなら、この役(石油王令嬢)は、ジョディー・フォスターにやらせろー!

 でも今回目が吸い寄せられたのは、ボンドの上司である英国諜報部のM役のジュディ・デンチ。おばさまだけどかっこいい。ファッション・センスなど見習ってほしい>土井たか子さん。

 ほか、もうひとりのボンドガール、『スターシップ・トゥルーパーズ』のバービー顔、デニス・リチャーズ。「セクシーで聡明な科学者」役なんだけど、あたしゃ、わりあい感情移入できましたね。

 それよか、なんとかならんか、ソフィー・マルソー。なんかしなの作り方が日本の女優みたいで、ふにゃふにゃしてて、とても教養があるようにも金持ちにも見えん。

 ……というように、なんか「物語」から逸れたことばかり考えてしまうエンターテインメント巨編。



2月13日(日曜日)

 『シュリ』
__監督、出演者、名前わからず。韓国映画。

 「北」の工作員(♀)が、「南」の諜報部員(♂)に作戦から近づき、恋に落ちる……ってストーリーをウワサで聞いていたので、なんとなく、殺し屋同士、結婚してしまい、相手の命を狙い合う、ジャック・ニコルスンとキャスリーン・ターナーの『男と女の名誉』みたいな映画かなーと想像していたら、正統派スパイものであった。こっちの方が、よほど「007」。ただし、物語としては、かなり前のシリーズ。西側の敵が、まだソ連で、ボンドがソ連の女スパイと恋に落ちるとか……そういう時代の。

 しかし、だからといって、悪くはない。日本の生ぬるい映画より、よほど、美的にも技巧的にもすぐれている(テクニックは完全にハリウッド映画ながら、韓国的なよさも含まれて、ハリウッド映画にはない新鮮さがある)。それに、やはり、テーマが抱える問題は、ボンドのように「ゲーム」ではなく、「現実」だから。いや、ボンドだって、それが「現実」の時代があったはずだが、イギリスと北朝鮮じゃ、生活のかかり方が違う。

 とかく日本人は、ここに、「メッセージ性」なるものを「読む」。「政治性」とか。私にいわせりゃ、北朝鮮→メッセージ性は、なーんにも考えちゃいない安易な思考。短絡。

 これは、なるほど、北朝鮮工作員の生の凄まじさが出てくる。でも、これを作ってるのは、韓国人だ。

 つーことは、ハリウッド映画となんら変わらないエンターテインメント作品だということ。いい意味で。そして、それは、そのテーマの深刻さにおいては、クリント・イーストウッドの『トゥルー・クライム』と等価である。つまり、エンターテインメント映画において、韓国は日本を完全に凌駕してしまったということである。

 日本人が「メッセージ性」などと言ってるうちは、まー、追いつけないだろう。

 ……と、こういう「見方」はまだまだ少数派と思うが……。

 だから日本のロケット打ち上げは失敗する。

 Asia is NOT ONE.



2月17日(木曜日)

 『ストーリー・オブ・ラブ』__ロブ・ライナー監督+ミシェル・ファイファー+ブルース・ウィリス

 なんとしらじらしい、いやな映画なんだろう。家族で夕食を食べながら語り合うシーンも、かつての日本のテレビ・ドラマ、『ありがとう』とか『時間ですよ』のリアリティさえもない。女優と男優と男女二人の子役が、そういうシーンを演じているだけ。その他、主人公たちをとりまく、友人とか、偶然出会う人々もわざとらしいというか、白々しい。こんな映画の、いったいどこを「観ろ」というのだ?

 それ以上の感想なし。



 お話変わって、出版社の人とか、ちょい名のある詩人とかがやってる掲示板を覗くと、よくフルネームで登場する人がいる。見れば、どこかでお見かけしたような名前ではあるが……。ああいうのは、自分の名前が、なんか、それなりに「意味のあるもの」って、思ってるんだろうなー……。

 誓い__私はどんなに有名になっても、掲示板には、フルネームで登場しないことを誓います。



2月19日(土曜日)

 つれづれなるまま……ゲーテの『ファウスト』の一連目だけ訳してみる







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